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7月「エーデルワイスの思い出」3.5

 珍しく遠出の仕事が入った。普段こういう仕事は、店長と二人で行くことが多いらしかったが、私が記憶を失くしてからは初めてのことだった。お得意様ということもあって、店長は配達希望の仕事を受けたけれど、自分は行けないと言って、代わりに運転手を信用している人に頼んだと話した。その人は、記憶を失くす前の私とも関わりが深い人で、今回の事情も詳しく知っている人だから安心して良いよと言った。

 当日の朝、店に来た男性はどこか緊張して見えた。私を良く知る人という話だったが、彼は私を見てどこか戸惑っているようにも見えた。私は、「自分が知らない自分を知っている人」の存在に、不安や緊張を持っていたけれど、私以上に彼は緊張して見えた。私たちがお互いに緊張していると、店長がそんなことはお構いなしに笑顔で言った。

「配達が終わったら今日の仕事はそれで終わりだから、ついでに散策しておいで。絢ちゃんも記憶を探す旅をしてくると良いよ。幸い彼が手伝ったくれるには最適な人だから、いろいろ連れてってもらうと良い」

 店長の言葉に、私は正直戸惑いを隠せなかった。中でも一番戸惑ったのは、『記憶を探す旅』という言葉だった。私はこの数日の間で、記憶を失くしたままでも良いのかもしれない…と思い始めていたところだった。お金を稼いで生活出来るというだけで、充分だったからだ。店長の話では、将来自分の店を持つのが夢だったという私。記憶は失くしてしまったけれど、自分がこの仕事を好きなんだということは、腑に落ちた。体が憶えている部分もあったことに最初は驚いたが、天職だと思えた。だから、好きな仕事でやりがいや活気のある生活をしている私にとって、記憶喪失が大した障害とは思えなくなっていった。ただ私にとって大切な存在が居なければ…という点を除いては。

 私を良く知る、私と深く関わりのある人…彼ならひょっとしてそんな存在が居たのかどうかも知っているのかもしれない。そう思って、彼の表情を窺うと、先程よりずっと戸惑いの色を濃くしているようだった。なぜそんな表情をするのか気になったが、聞くことも出来ずに、私たちは店長に見送られながら店を後にした。

 配達先に向かう道中、何を話して良いのか解らなかった。初めは彼からいろいろと聞かれるのだろうか…という不安にも似た緊張を抱いていたが、彼は私のことには何も触れることなく、他愛もない天気や店の話をしていた。それでも話題はすぐに尽きてしまい、彼はラジオをつけると運転に集中した。車内には流行だという曲が流れていたが、正直どの曲もよく解らなかったが、1曲だけ聴いたことがあるような気がした。その曲がラジオから流れてくると、運転に集中していたはずの彼も、流れてくる曲に耳を傾けていた。思い出の曲なのだろうか…と彼を覗き見ると、懐かしむような、でもどこか哀しい笑みを浮かべていた。その表情を見ていると、何故だか切なくて泣きそうな気持ちになった。私は自分が抱いた訳の解らない感情を振り払うようにして、すぐに窓の外へ視線を移した。

 配達先に到着してからは、すぐに気持ちを切り替えた。花木の注文をしてくれたお得意様である志摩さんは、店長の古くからの知り合いで、私の記憶喪失のことも知っている人だった。華道家という職業のせいか、花木のことは専門的に詳しく、私も勉強になることばかりだった。今回は個展の準備で、会場設営から演出まで総てを行っているらしく、いつも店で見る顔とは随分違って見えた。持ってきた花木のことや、魅せ方一つに拘りがあって、スタッフを交えて何度も細かいところを打ち合わせた。私が打ち合わせをしている間、ふと彼のことが気になった。店長が頼んだのは運転手とはいえ、放っておいて大丈夫だろうかと思ったし、先程の哀しい笑みもずっと気になっていた。

 視線を彼に移すと、持ってきた花木の中でも、一番背の高い大きいものを抱えてこちらに歩いてくる様子が目に入った。

「彼、当摩が頼んだっていう絢ちゃんの運転手さんでしょ? 大丈夫なのかな…あの花木、結構背丈高かったよね…?」

 私の視線が別の所に向いているのに気づいた志摩さんが、同じように彼に視線を移す。誰からどう見ても危なっかしくて、今にも倒れそうだった。その予想はすぐに的中して、彼は何かに躓いて花木ごと前へ倒れ込みそうになった。幸い私たちからほど近い距離だったこともあり、駆け付けて手を伸ばそうとした寸前、彼は自分の身を反転させて、背中を向けて地面へ倒れ込もうとした。勿論私は、彼が倒れ込む前に花木ごと彼の腕を掴んで、ことなきを得た。その私を支えるようにして隣に立った志摩さんは、花木を掴んでいたおかげで、彼も花木も無事だった。志摩さんは、会場設営の不備だといって彼に謝罪した。そしてスタッフを呼びに、会場へと入っていった。彼は自分が起こしてしまった事態にバツが悪いと思っているのか、心配して言葉をかけた志摩さんに歯切れの悪い返事をした。それから少ししてホッとしたのか、表情を緩めた。私は彼の腕を掴んだまま動けないでいた。

「あの、ありがとう…ございました。それとすみません、大事な花木を無駄にしてしまうところでした。お得意様に頼まれた大事な商品を、素人の僕が手を出してしまったばっかりに、あなたに迷惑がかかるところでした」

 彼が申し訳なさそうに口を開く。大事な花木を無駄にしないために、彼は自分の身を挺してでも花木を守るつもりで、背中から倒れ込むつもりだったのだ…と感じた時、自分の中に抑えきれない感情が湧きたった。気づいた時には、私は声を荒げていた。

「何を考えているんですか‼ その花木を守って、あなたは怪我でもするつもりだったんですか⁉ それで私がどんな思いをするか考えなかったんですか⁉ あなたが身を挺して守って、何になるんですか!!」

 自分でも驚くほどに大きな声が出た。でも止められなかった。彼が花木を守って背中から倒れ込みそうになった時、自分でも信じられないくらいに動揺した。すぐに腕を掴んでことなきを得たが、震えは止まらなかった。確かに花木は無事だった。なかなか入手出来ない難しい花木で、志摩さんの今回の個展のメインだと言ってもいい。志摩さんにとってみれば、倒れ込んだところで大怪我には至らないと感じたのだろう。だから志摩さんは、一番に花木を掴んでいた。彼と花木の両方を掴んだ私を支えてはくれていたが、志摩さんの手は、確かに花木にあった。それを責めるつもりはないし、志摩さんにとっては当然の行動だと思う。でも…それでも彼自身の口から花木を無駄にするところだったと、私に迷惑がかかるところだったと、そう聞けば、胸が苦しくて怒りを抑えることは出来なくなっていた。

 怒りに任せて声を荒げると、彼は今までで一番、戸惑いの表情を見せた。私はその表情に、自分が一体何をしたのかと、驚きで動きを止めた。会場に入っていた志摩さんが、私の声の大きさに姿を見せて話しかけるまで、私は茫然とその場に立ち尽くしていた…。


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