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7月「エーデルワイスの思い出」1.5

 光のない、一面が深い青。どこにも居場所がない、どこまでも続く暗闇の中、寒くて冷たくて動かなくなっていく体。けれど温もりに包まれたように右手だけが温かかった。

 目覚めると、真っ白な天井とカーテンが視界に入った。自分の意思と切り離されたように、まるで動かない体。意識もぼうっとしていて、自分が居る場所さえはっきりとしない。それでも重たい上体を何とか起こして部屋を見渡すと、見慣れない白い部屋のベッドに座っていた。家具は一つもない、自分が寝ていたベッドも体に掛けられていたのも、無機質でいて白い薄い布団だった。枕の傍には、呼び出しのスイッチが無造作に置いてあって、部屋の外に耳を傾ければ、忙しなく動く足音や人の声、心電図の機械音が聞こえる。そこでようやく自分が居る場所が病院なのだと気づいた。しかし自分が居る場所の謎が解けるとすぐに、なぜ病院に居るのか…という疑問が生じた。憶えていることといえば…いや、憶えていることが…ない。

 目覚める直前に見ていた夢のようなもの、暗くて深い青い闇の中に私は居た。冷たくて寒くて動かなくなっていく体を感じながら、それでも抗うことのない私の手に触れた温もりは何だったのだろうか。なぜあんな夢を見ていたのか、そしてなぜ病院に私は居るのか…私は誰なのか。

 目覚めて暫くたってから、様子を見に来た看護師が、私が起きていることに驚いて、すぐに医者を呼びに行った。その後に幾つか確認と検査をされたが、私はどうやら一時的な記憶喪失になっているらしかった。自分のことなのに、まるで他人事のようにしっくり落ちてこないのは、やはり自分が何者なのか解っていないせいなのかもしれなかった。そもそも病院に運ばれたのも、海で流されていたところを発見されたとのことだった。発見された時の詳しいことは解っていないが、流されていたのは私だけではなく、もう一人居たという話も聞いている。けれど流されていたもう一人の、それ以上の情報は不明だった。

 自分の身分を証明出来るものを一つも持っていなかった私が、唯一持っていたのは、花屋の名前が書かれたカードだった。それも一枚ではなく、たくさん持っていた。何も持っていないのに、そんなにたくさんのお店のカードを持っているのは、私がお店の人間なのでは? という看護師さんの予想に基づいて、ひとまず連絡を取ることになったが、いろいろな検査に時間がかかっていたせいもあって、外は真っ暗。時計を見ると19時を過ぎたところだった。さすがにお店はやっていないだろうから、明日の朝連絡すれば良いと言われたけれど、何となく…本当に何となくだけれど、お店は開いている気がして、看護師さんに少しの小銭を借りて、病院内にある公衆電話で花屋のカードに書かれていた番号に電話を掛けてみた。

 面会時間が終了する5分前、滑り込むようにして病室の戸がガラッと大きな音を立てて開いた。

「絢(あや)ちゃん! 電話もらって…びっくり…した。病院…っていうから、本当に驚いたよ…」

 余程慌てて走ってきたのか、目の前の男性は話しながら、時々肩で息をしていたが、話の内容はとにかく「驚いた」しか出てこなかった。最初に呼んだ「絢」という名前が、どうやら私の名前らしいが、やはり記憶喪失のせいなのか、しっくりこなかった。話しかけた男性も、私の様子がおかしいことにすぐに気づいたが、私が口を開く前に病室に小銭を貸してくれた看護師さんが入ってきた。彼女は病室に入るなり、病院の廊下を走ってきたことと大きな音を出したことを理由に男性を咎めた。私からすれば、男性を咎めている看護師さんの声も相当大きいと思ったのだが、それには触れないでおいた。看護師さんは男性を咎めた後、一緒に男性と病室を出て行った。時計を確認すると、時計の針は20時を指していた。面会時間が終了して、連れ出されたのかと思ったら、ほんの10分後、ノックと共に先程の男性が病室へ再び入ってきた。そして私が記憶喪失であることと、ここに運ばれた簡単な経緯を看護師さんから聞いた…と男性は言った。それからまた明日、今度は昼前に来るよと言って、病室を出て行った。

 翌日、昨日の男性は言葉通り、昼前に病室を訪れた。そして何も持っていない私の代わりに病院の会計を支払い、看護師さんに借りた小銭も返してくれて、私は男性に連れられて病院を後にした。男性は私を乗せた車の中で、私の名前と自分の名前、自分が花屋の経営者兼店長だと教えてくれた。

「うちの花屋は元々、夜のお店の為の花屋だから、営業時間が街中の花屋さんと違って遅いんだ。基本は平日18時から2時まで、土日だと遅くて3時までやってる時もあるかな。あ、絢ちゃんはうちの昼間の従業員さんでね…主に配達と、前日の営業時間に注文して帰ったお客さんに、商品を渡してもらうお仕事をしてもらってたんだ」

 昨日病院で思った何となくの予想が、男性の言葉で確実になったことに、別段の驚きはなかった。それは記憶喪失でありながらも、確実に私の中に根付いている記憶の一部なのだと、何となく腑に落ちた。しかしそれより驚いたのは、夜遅くまで店を開けている花屋が、昼間の配達や商品の受け渡しを従業員であるとはいえ、私一人に任せているという状況だった。男性の話では、私以外に雇っている従業員は居ないらしいが、私という人間はそこまで信用における相手だったのだろうか。すると考えていたことが表情に出ていたのか、男性は車を停めて私に向き直った。

「信用してるよ、前も今もね。絢ちゃんの状況からすれば、記憶喪失なんて不安な状態で俺のことも信用出来るか怪しいと思うかもしれないけど、大丈夫。俺は信用してるよ。でね、ここが俺の店なんだけど…絢ちゃんさえ良ければ、記憶が戻るまでここに住み込みで働いたらどうだろう?」

 結局断る理由もない上、記憶喪失で自分が住んでいた場所も思い出せない状況下で、雇用主だという男性に病院代を肩代わりしてもらっている以上、私は働いてお金を返す必要があったし、住み込みなら問題もないし、元々自分が働いていた場所なら何か思い出すことがあるかもしれない…と思い、男性の提案を受け入れてから2カ月が経った。それでも肝心なことは何一つ、思い出せないままだった。もどかしさが全くないとは言えないが、思い出さなくても案外普通に暮らしていけるのは、職と家を提供してくれる店長の存在が大きかったところがある。本当に言葉通り信用してくれているようで、連れてこられたあの日から、店の鍵を私に託した後、店の奥にある居住スペースの案内と説明を終えると、自宅へ帰っていった。鍵を渡された日は、逆に私の方が心配だったが、花の香りに包まれた場所での生活は、私の不安をかき消してくれるだけでなく、懐かしく温かい気持ちにしてくれた。

 このまま記憶が戻らなくても生きていける、そう思い始めた矢先、連絡手段がないと不便だという理由で持っていた自分のスマホに、メッセージが届いた。それは、記憶のない人物からのメッセージだった…。

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