7月「エーデルワイスの思い出」⑩
あの日からちょうど2週間が経った。絢の記憶はまだ戻ってはいない。けれど僕と絢の関係はまだ続いていた。続いていたとは言っても、元々僕らは離婚したわけではないのだから、戸籍上は夫婦ということにはなっているが、それでも僕の奥さんだったという記憶は、今の絢にとっては何の関係もないし、それこそそんなことを言われても困るだろうと思って、特別僕からは何も言わないでいる。
店に送り届けた後、花屋の店長と挨拶を短く交わした程度で、店を後にしようとした時、片づけ途中の絢が店の奥から僕を追いかけてきた。
『花巻さん! 私に挨拶もしないで帰る気でいたんですか?』
『え、いや…まだ怒ってるんだと思って…』
本当はあんなことをした手前、恥ずかしくてどんな顔をすればいいのか解らなかった。帰りの車中でも、彼女の顔を見ることが出来なくて、暗いのを良いことに僕は運転に集中していたし、気を張っていたせいか疲れたせいか、途中彼女の寝息が聞こえてきた時はホッとした程だ。店に送り届けてからも、片づけをしに店の奥に入っていく後ろ姿を見つめはしたものの、面と向かって挨拶をするのは気が引けて、店長にだけお礼を言って、店を出てきた…というわけだ。まさか絢が追ってくるとは思わなかったから、予想外の出来事に僕の心が追い付かず、しどろもどろになりながら適当な言い訳を口にした。
絢は「まだ怒ってると思って…」という僕の言い訳を聞いて、少し不満そうに口を尖らせた。こんな風に彼女が感情を露にする姿を見るのは、新鮮で嬉しいと思う反面、かつての彼女が僕には見せなかった…いや、僕が知ろうとしなかった、僕の知らない本当の彼女の姿というものを突きつけられているようで、寂しく思うと同時にそれが自分の罪を色濃くさせた。
『怒ってないです。さっきも今も、怒ってるんじゃなくて…ほら、またそんな顔する! 花巻さんが私を見る目が凄く奥さんを想ってるから…言葉でも行動でも私を必要って言ってくれたけど、それでも私が花巻さんの奥さんだったっていう過去はあって、でも私自身にその記憶がないから…』
『解ってる。今の絢にとっては、僕の奥さんだった記憶は何の関係もないって、ちゃんと解ってる。それでも君が見せる表情ひとつひとつが、僕の知らない…いや、僕が知ろうとしなかった絢の、これが本当の君の姿なんだと思ったら、僕の想いはなんて独りよがりだったんだろう…って、いやごめん。それこそ今の絢には何の関係もないよね』
恥ずかしさじゃなく今度は罪悪感から、彼女の顔を正面から見ることが出来なくて、僕は俯いた。海で彼女が僕に言ってくれたことも、彼女から口づけをしてくれたことも、それが多少なりとも今の絢から寄せてくれた好意だと、僕は気づいていた。それなのに気づかないフリをして、彼女を怒らせたのは、その好意を受け取る資格が僕にあるのか解らなかったからだ。
『…花巻さん、今の私を必要だと言ってくれましたよね? もしその気持ちが本当なら、私の好意に気づかないフリをするのは、もうやめにしてください。あなたは記憶を失う前の私を傷つけたと言うけど、きっと私は傷ついていないんです。前の私のことが今の私には解らないけれど、本当に好きで一緒になったのなら、そんな風に哀しませるのは辛いです。私もあなたの辛そうな顔を見ると哀しくなります。それは前も今も、私の共通の思いです』
俯いたままの僕の両手を彼女が取って、優しく握る。温かい手だった。海で掴んだ冷たい手とは違う、今も生きている彼女の温かさだ。彼女の温かさに触れ、僕が僕自身を憎まなくても良いと言ってくれる彼女に、僕は顔を上げようとしたけれど、自分が涙を流していることにすぐに気がついて、それこそ彼女には見せられたものじゃないと思い、顔を上げるのをやめると、彼女の右手が、そっと俯いて涙している僕の頬に触れる。そして僕を抱き締めると、幼子をあやすみたいに僕の背中をポンポンと触れた後、俯いたままの僕の頭を撫でた。絢には昔も今も、情けない姿ばかり晒していて、男としてどうかと思うし、子どものように扱われて恥ずかしい気も少しはしたけど、撫でられる絢の手が心地よかったから、そのまま彼女に抱き締められていることにした。
『花巻さん、お願い聞いてくれますか?』
ひとしきり撫でられたあと、心地良さよりも恥ずかしさが勝ってしまい、やっぱり顔を上げられないでいた僕に、絢が言葉を投げかける。僕は彼女の言う「お願い」を聞くために、ようやく顔を上げて彼女を見つめた。
『うん。絢のお願いならいくらでも聞く…よ』
どんな願いでも聞くつもりでいたけど、相変わらず僕は意思が弱い。どんな願いでもと言っておきながら、あの日手紙で残されただけの、別れの言葉を連想してしまい、言葉尻がか細く消える。絢はそんな意志薄弱な僕を見て、小さくしょうがないなあと言って微笑む。僕はそんな彼女の笑みを見ながら、次の言葉を待った。
………
「創くん! ごめん、遅くなっちゃって。お店に志摩さんが来てて、今度の展示会の打ち合わせに参加してた」
「ああ、志摩さん。志摩さんか…」
志摩さんという名前を聞くと、苦い思い出が蘇る。僕の勝手な思い込みで嫉妬したせいで、志摩さんには随分迷惑をかけている。それを思うと、本人に会って謝罪をした時のことは今でも忘れられない。
「まだ気にしてる? 志摩さんを男性だと思って、私と仲が良くて嫉妬してくれたんだよね? でも嫉妬したのに私が泣いた時、志摩さんのこと呼びに行こうとしてたでしょ? 置いて行かれるみたいで哀しかったんだよ」
「いや、あれは…泣いてるのは僕のせいだと思って。ごめん」
「ふふ…創くんが私のことで、しどろもどろしてるの…私好きかも。志摩さんを女性だって知った時の驚き方も凄かったけど、店長と双子だって知った時の表情も面白かった」
「絢は底意地が悪くなったな。僕の表情を見て楽しんでるみたいだけど、記憶を失くす前の自分に嫉妬する絢も、相当可愛かったけど?」
「あぁっ…あれは…創くんが悪いんじゃない。前の奥さん…って、私だけど、ずっと記憶を失くす前の私のことばかりで……」
口を尖らせて不平不満を言い続ける絢の姿を見ながら、あの日の絢の「お願い」を僕は思い出していた。
『これからも私をいろんな所へ連れて行ってください。前に私と行った場所もそうじゃない場所へも。今までのことはともかく、これからは私との思い出をたくさんつくってほしいんです』
その「お願い」の日から、僕は絢の休みの日や仕事終わりに時間があれば、絢を誘っていろいろな場所へ出掛けた。昔彼女と行った場所にも、今の彼女が行きたいという場所にも、僕が行きたい場所にも。二人で一緒に居られる時間を少しずつ増やしていくことで、僕は自分の知らない彼女を、彼女は僕のことを知り、前よりもずっと仲の良い恋人のような関係になっていった。戸籍上は夫婦なのに恋人なんて、順序が逆で少し…いやだいぶ? おかしいのかもしれないけれど、そんなことは気にならないくらい、彼女と一緒に過ごす恋人時間は楽しかった。
「…だから、聞いてる?」
「え、ごめん。聞いてなかった」
「もう、あと1回しか言わないからね。創くん…私ともう一度家族になってくれませんか? 戸籍上はもう夫婦かもしれないけど、ちゃんと今度は二人で一緒に幸せになろう?」
記憶を失くした絢が僕を見つめる。あの日、僕のプロポーズを受けてくれた彼女と同じ瞳で、今度は僕にプロポーズしてくれる。いつ用意していたのか、彼女が僕の手を取り指輪をはめる。彼女は自分の指にもはめて欲しいと指を出すと、そこにはかつて僕が絢に贈ったはずの指輪がはめられていた。
「この指輪…どこで…」
「こないだ創くんが私のお願いを聞いて、一緒に住んでた家に連れて行ってくれた時。あの日、見つけたの。大事そうに箱にしまってあったよ、手紙と一緒に。幸せだったって書いてあったの。それを見たらね、私…自分のことなのに、涙が止まらなくなって…創くんを今度は私が幸せにしてあげなきゃ…って思ったの。だからね、だから…今度は私が創くんに幸せを還してあげたいから、私ともう一度家族に…」
絢のお願いを聞いて、二人が暮らしていた時の家に絢を連れて入るのは、僕にとって勇気のいることだった。それでもいいと言った彼女が、あの家で突然泣いた理由を今になって知って、僕は我慢出来ずに、彼女が言葉を言い終わらない内に抱き締めて彼女の唇を奪う。幸か不幸か、人通りのない場所だったこともあり、僕は自分の気持ちを止められなかった。ひとしきり彼女の唇を堪能した後、指輪をはめている彼女の指にそっとキスをする。
「そんなこと言われたら、この先もう二度と離してやれない。勿論手放すつもりはないけど。それでも家族になってくれる? 相変わらずうちの親は反対してるし手強いけど、今度こそ護るから。だから僕は絢を、絢は僕を幸せにして? そうして二人で幸せになろう。愛してるよ」
僕が愛したひとは記憶を失った。今もその記憶は戻ってはいない。この先も戻る保証はない。それでも僕は今の彼女を護って、これからは二人で新しい幸せを探しにいく…。