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7月「エーデルワイスの思い出」②

 真っ白な何もない空間、視界に写るのは真っ白な壁とカーテンと天井。そして僕を心配そうに見下ろす兄の姿だった。

 あの日、彼女を追って海へ入って、絶対に離さないと誓ったはずなのに、目覚めた病院に彼女の姿はなかった。看護師の話を聞くと、僕が海で発見された時は既に一人だったらしい。それでもいろんな人に話を聞いて回って、最終的に解ったことは、どうやら僕が発見された場所から少し離れた場所にもう一人姿があったかもしれないという、不確かな情報だった。それでも僕はその不確かな情報から、彼女がここではない別の病院に運ばれたのだと、信じることにした。

 退院するまでの間に、彼女との結婚を反対していた両親は一度も見舞いには来なかった。駆け落ち同然で家を飛び出したのだから当然だと思っていたけど、本当の理由は別にあった。

「母さんはお前が病院に運ばれた時の連絡で、相当動揺してた。あの厳しかった父さんでさえ、珍しく消沈してたんだ。二人とも病院に行くって聞かなかったけど、事情が事情だから、俺が今はそっとしておいた方が良いって説得したんだ。それに、今回のお前たちのことで、二人とも相当ショックを受けてる。お互いに時間は必要だろ? だから退院後もお前は暫く自由に動けばいい。彼女を探すには充分な時間があるはずだ」

 退院の日、病室で聞いた兄の言葉には、驚きしかなかった。特に普段の父親から想像出来ない「消沈していた」という言葉には、少なからず衝撃を受けた。正直反対していたあの日の両親からは、兄の話すイメージが湧いてこなかったけど、彼女を探すための時間を確保してくれた兄には、感謝しかなかった。ひとまず兄は海で発見された僕の車を運転して、彼女と二人で暮らした家に連れて帰ってくれた。それからタクシーを拾って帰ると言って、僕の家を後にした。

 家に帰ってまず、僕は彼女の持ち物を探した。あの日、身一つで海に投身自殺をしようとしていた彼女が何も持っていなかったのなら、この家に彼女の物は総てあると考えたからだ。持ち物を探すのはプライバシーの侵害だと解っていたけど、緊急事態だからと自分に言い聞かせた。

 彼女の荷物から見つかった、情報が得られそうなものは、スマホと手帳と名刺入れだった。スマホでは特に目ぼしい情報は得られなかったが、手帳には彼女が書いた日記があった。それを読めば、彼女が自殺するまでに至った心情が記されていた。天涯孤独となった彼女が大事な人を作らずに、一人で生きていこうと思った人生の中で、彼女が抱いた気持ちは、また失うかもしれないという不安だった。それでも僕と生きる道を選んでくれたけれど、反対された僕が家族を捨てて彼女と生きる道を選んだことで、彼女の中に眠っていた不安は少しずつ彼女の心を蝕んでいった。このまま二人で生きていくことが本当に僕にとっての幸せなのか、そして現実的に二人だけで生きていくことの難しさも、彼女にとって拭えない不安材料だった。彼女が書いた日記を読んで、僕は初めて彼女が抱えていた不安やその大きさを知った。僕に何も言わなかったのは、それが現実となって大きくのしかかるという不安が、彼女の中にあったからだ。僕は初めて彼女の気持ちを知って、改めて彼女と付き合うまでにかかった歳月と二人で暮らした時間を思い起こした。そして自分のことしか考えていなかった自身と、彼女さえいればそれでいい、二人なら何でも乗り越えられると思いながらも、結局現実の厳しさに、彼女の不安を感じていながらも何もしようとしなかった自分の不甲斐なさに、僕は自分を殴ってやりたいと思った。

「何が一番の理解者だ…彼女の不安一つ拭うことも出来ずに、僕は何をやっていたんだ…幸せにするなんて言葉で彼女を縛っただけじゃないか…」

 僕は彼女の居ない部屋で咽返る程、涙を流した。もしかしたら彼女が、この部屋で僕が眠った後に、声を押し殺して泣いていたかもしれないのに、彼女に何もしてあげられなかった僕がここで泣くのは卑怯かもしれなかったけど、だからといって涙は、僕の意識に反して簡単には止まってくれなかった。

 ひとしきり部屋で泣いた後、僕は彼女を探すことが彼女にとって正しいことなのか解らなくなった。僕自身の気持ちをいえば、今すぐにでも探しに行きたい。けれど彼女にとって僕と居ることが幸せなのか、それが解らなくなった今、すぐに行動に移すことは躊躇われた。彼女の所持していた名刺入れを見れば、いつか自分の店を持つのが夢だと話していた彼女のキラキラした姿が思い起こされた。それと同時に思い起こされたのは、その夢を壊し、絶望に打ちひしがれたあの日の彼女…。最後に僕が見た彼女の姿だった。

 彼女とこんなに長い期間会えない日々を過ごしながら、やっぱり彼女に会いたい気持ちと、本当に探し出していいのか解らない気持ちの両方を感じながら、それでも一目で良い、せめて彼女の無事を確認したいという気持ちが勝った僕は、少しずつ彼女の手掛かりを探していた。そんなある日、彼女をマンションのエントランスで見かけたという兄の報せを受けた僕は、詳しい話を聞くために、急ぎ兄の元に向かった。

「ここだ…」

 兄の話によれば、以前のように彼女はマンションのエントランスに花を飾っていたのだという。けれど彼女に話しかけた兄は、彼女の対応に違和感をもったと言った。まるで別人、いや知らない人と話しているような雰囲気だったと話した。僕は兄の話を聞くと、すぐに彼女が働いているはずの花屋に向かった。そして僕は今、反対側の道路から花屋を眺めていた。すぐにでも店に入って彼女の姿を確認したい、無事を確かめたい。その気持ちに偽りはないけれど、やはり恐怖も同じように感じていた。これが本当に正しいことなのか、彼女の幸せは僕と別の所にあるのではないか…と。

「あの…もしかして、絢ちゃんの…」

 うろうろと同じ場所を行ったり来たりしていると、背後から声をかけられた。振り向くと、そこに居たのは物腰の柔らかそうな男性が立っていた。あの日、彼女が悩んでいることと僕の父親が何度も彼女を訪ねてきたことを教えてくれた、花屋の男性だ。

「彼女は今も店で働いているんですか? 元気に…いや、体は大丈夫ですか? 見つかった時どこにも怪我は…あ、いや、彼女は今、幸せですか?」

 彼女の無事を確かめたくて言葉にしたものの、男性は彼女が海に入ったことを知らないかもしれない、と思い直して、何度も言い直した結果、最終的に自分の不安を吐露するように、そして彼女が再び、自分の夢に向かって生きていて欲しいという希望を抱いて、彼女が幸せなのかどうかを確かめたかった。男性は僕の言葉を受けて、少し話しましょうと言って、僕を連れ出した。そして僕は男性から、彼女がここに来るまでの経緯を話してくれた。

 病院から店に彼女が連絡してきたこと、海で発見されて入院していたこと、そして記憶を失っていることを。

「名前も住んでいる場所も解らなかったから、花屋の居住スペースで住み込みで働いてもらっています。昔、祖母が花屋を経営しながら生活していたから、一人分の居住スペースもそのまま残っているんです。お店の営業時間は夕方からなんで、今の時間は閉じていますけど。絢ちゃんには元々、予約のお客さんへの配達がメインの昼間の仕事をしてもらっていたので、花屋の仕事をしていたら何か思い出すかもしれないし…と思って、提案しました。あ、これ…彼女の連絡先です。病院で会った時、彼女うちの花屋の名刺カード以外に何も持ってなくて、普段仕事するのにも連絡手段に困るから、スマホを持ってもらっているんです」

 男性から渡された紙片に記された電話番号を見て、僕は戸惑いを隠せなかった。僕よりずっと彼女の身に起こったことを知っていて、僕よりずっと以前から彼女の不安に気づいていて、彼女のために住む場所も暮らしていくための仕事も提供出来て、何より彼女の夢を叶えることの出来る存在である男性が、彼女の不安を掻き立てて、記憶を失う原因となった僕に、なぜここまでしれくれるのか理解出来なかった。

「ど…うして僕に…。彼女の幸せを考えれば僕の存在は、彼女にとって排除すべきで、彼女の夢を叶えるためには、僕なんて居なければいいはずなのに…」

「あなたの幸せが絢ちゃんにとっても幸せだからですかね。確かに彼女は辛そうだったし、とても悩んでいたけど、不幸ではなかったし、夢も諦めてなんかいなかったですよ。あなたと居る時の彼女は、少なくとも僕には幸せそうに見えたから。僕にとって、絢ちゃんは幸せになってほしい人だから、絢ちゃんにとって自分を幸せにしてくれる大切な人なら尚更、その存在であるあなたにこれを渡したいんです。絢ちゃんをお願いします」

 男性と別れて帰宅した後も、彼女の連絡先が書かれた紙片を見つめては悩み、メッセージを入力しては消して…を何度も繰り返した。本当に良いのかも解らなかったけど、それ以上に今は、記憶を失くして僕のことを憶えていない彼女に会うのも怖かった。なぜなら、このまま何もなかったことにして生きていく方が、彼女にとって幸せなのかもしれないと思うのも本当の気持ちだったけど、またゼロから…彼女と知り合う以前の関係から彼女との時間をやり直すことへの不安と、もしも僕と居る中で記憶を取り戻した彼女が、再び壊れる様を見ることと、そうなった時彼女が同じ選択をして、また失うかもしれないことへの恐怖が募った。けれどまた失うかもしれないという恐怖を感じた時、僕は彼女が以前に感じていたその恐怖を自分が体感することで、彼女に連絡することを決めた。男性が最後に言った「絢ちゃんをお願いします」という言葉を思い出しながら、僕はもらった電話番号にメッセージを送信した…。

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