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7月「エーデルワイスの思い出」①
世界でたった一人、大切な人がいた。彼女さえ傍にいれば、彼女の傍にいられたらそれだけで幸せだと思っていた。家族か彼女か、どうしても選ばなければならないとしても、彼女を選ぶ…僕にはその一択しかなかった。
彼女は天涯孤独の身で、頼る親戚はいなかった。僕は家督を相続しなければならない家柄に次男として生まれ、僕自身は相続人ではなかったけれど、厳格な祖父の教えのもと、両親からも厳しく育てられていた。そんな僕らの出会いの場所は、兄が住んでいたマンションだった。マンションに出入りしていた花屋の配達人だった彼女の姿を一目見て、興味を惹かれた。
人付き合いが得意な方ではないのか、マンションの大家さんとぎこちなく話す彼女が、エントランスを花で飾りつける。人とはうまく話せないのに、まるで花と会話しているように見えた。優雅でいて繊細、花に向けられる真摯な瞳、時折見せる恍惚とした微笑み、愛おしそうに花を見つめて飾られていくエントランスホールが、彼女の周りだけキラキラ輝いて見えた。気づけば僕はすっかり見入ってしまい、彼女に一目惚れした。
けれど相手は人付き合いが苦手な彼女だ。自然に彼女が話してくれるようになるまで時間がかかった。本当はすぐにでも、告白して付き合いたかったけど、先ずは人として信用されることと、友人として長い時間を共にすることに重きを置いた。話すようになって解ったのは、本当に彼女が花を好きなこと、いつか自分の店を持とうとしていること、今働いている花屋は大学時代の先輩が継いだ個人経営の花屋だということ、そして彼女が天涯孤独だということだった。
友人を経て付き合うまでに3年かかった。初めて彼女と出会ってからの歳月を換算すると、5年半にもなった。正直頑張ったと思う。僕は兄と違って、せっかちな方で、今までは何でも結果を急ぐような人間だった。恋愛に関しても気に入った子がいれば、すぐに告白して、振られたとしても次の恋に走り出す…そんな性格だった。けど彼女にだけは違った。振られるなんて考えたくもなかったし、もしも振られていたとしたら…考えるのも嫌だけど、多分次の恋には進めない、それくらい本気だった。
恋人として付き合って、一緒に暮らすようになって、この先も彼女が僕と生きていくことを考えてくれるようになってくれた頃、プロポーズをして、彼女が受け入れてくれて…総てがこのまま順調にいくと思っていた。けれど僕の家族に彼女を紹介した時、結婚を反対された。僕は次男だから、家とは関係なく生きてきたし、これからもそうだと思っていたから、家族から反対された時、感情を爆発させた。随分と遅い反抗期だったと思う。何度説得しようとしても聞く耳を持たない家族に、僕は反対を押し切ってでも結婚するつもりだったけど、彼女はそれでも家族は大事にしてほしいと言った。でも彼女にとって僕がたった一人の家族で、理解者だと思っていたから、僕は彼女と生きていく道を選んだ。家族も家も捨てて、彼女と生きていく未来を選んだ。
彼女さえいればそれでいい、二人なら何でも乗り越えられる…そう思っていたけれど、現実の生活は、僕らが描く理想通りとはいかなかった。天涯孤独で生きてきた彼女の大変さを、僕は身をもって知った。頼る人が誰もいないという状況を甘く見ていた。二人でいられる日々の幸せもあったし、毎日が辛いことばかりではなかったけど、自分のことで精一杯になることも多く、彼女の唯一の理解者でありながら、彼女の想いに気づくことが出来ない日々が続いた。だからあの日、彼女が僕から離れようとしていたことにも気づけなかった。だから気づいた時には遅かった。
いつもより遅い彼女を待っている間、不安に駆られて彼女が働く花屋へ向かうと、物腰の柔らかそうな男性が花屋をやっていた。大学時代の先輩をずっと女性だと思い込んでいた僕は驚いた。花屋が夜に開いているのも驚いたけど、昼は配達しかしていないのだと男性は言った。そして彼女が悩んでいること、何度か店に年配の男性が彼女を訪ねてきたことを聞いた。年配の男性の風貌を聞くと、僕の父親らしかった。多分、父は別れるように言ったんだと思う。話の内容は聞かなかったけど、揉めているようにも見えた…と、花屋の男性が言った時、僕の携帯に彼女からメッセージが届いた。
『今まで幸せだった。ありがとう』
僕は花屋を飛び出した。どこへ向かえば、彼女に会えるのか解らなかったけど、昔彼女が一番好きな場所として教えてくれた海へ向かった。
暗闇で何も見えなかったけど、車のライトで海を照らすと、遠くに彼女の姿を見つけた。随分中ほどまで、彼女の体は波へ浸かっていた。僕は慌てて駆け出し、波をかき分けていく。彼女の名前を叫びながら、その姿を手探りで追っていく。車のライトが届かないところまできて、彼女の姿は見えないし、波が寄せる度に海水が鼻や口から入ってきて何度も咽返って、なかなか名前を口に出来なくなった。水を吸った服は錘のようで、進行を妨げる。彼女の元へ早く進みたいのに気ばかりが焦って、また海水を呑み込んで咽返って…の繰り返しをしていたら、僕の手を何かが掴んだ。
彼女の手だった。何も見えない暗闇なのに、目の前にいるのが彼女だと解った時、重さで動かなかった体が一瞬軽くなった。彼女は自分の行動を棚に上げて、僕をとても怒った。彼女が怒る姿は初めてだった。引き返すように説得する彼女、僕を何とか引っ張って元の場所へ戻ろうとする彼女、海水に濡れているのとは違って、僕が好きだったあの瞳からたくさんの涙を流しながら訴える彼女を見て、僕は彼女を抱き締めた。このまま二人で死んでも何も怖くない、そう思った。彼女は最後まで抵抗していたけど、僕は彼女を手放さなかった。彼女の夢を叶えてあげられないことだけが、唯一の心残りになる…そう思いながら、僕は彼女と心中した。
…はずだった。でも僕は生きていた。目覚めた時、彼女はどこにもいなかった。