1月「雛菊の願い」⑨
大学生といえど私よりは少し大人で、いつも誰にでも優しい笑みを絶やさない彼が私の前で泣いたことに、少なからず衝撃を受けていた。笑顔の裏に抱えていたおばあさんへの想い、お店を継ぐまでの葛藤を聞けば、自分が言われた言葉のひとつひとつにも、彼なりの気遣いや想いがあったことを知る。私は子ども扱いされているように感じてしまって、いつも反発していて話を聞く耳すらもたなかったけど、今日のことだけでも思い返してみれば、彼はいつも大人ぶろうとしている私ではなく、そのままの私を見てくれていた。
『いいんじゃない? 高校生でも子どもでも、姫奈(ひな)ちゃんは彼のために必死に頑張ったんでしょ? 靴擦れするほど頑張って歩いて、必死に追いつこうとして…その努力は俺からしたらすごいことだよ。でも俺はやっぱり高校生の姫奈ちゃんも、子どものままの姫奈ちゃんでも、良いと思うんだ』
社会人の彼は、私が努力して大人の女性になろうとしているのを知ってると言った。そういう私が好きで、大人びている私や隣に立つのに相応しい女性になろうとしてくれている私が好きだと言った。同じだけど違う。2人とも同じように私の努力を見ていてくれるのに、何かが違った。いつもの私なら、大人びている私が好きだと言ってくれた彼に…相応しい女性になろうとしている私を好きだと言ってくれる彼に、違和感なんて抱かなかった。躊躇だってしなかった。いつもの私なら、手放しで喜んでいたはずなのに。ほんの少しだけ思ってしまったんだ。大人の女性に必死になろうとしている私が好きなんだとしたら…女子高生のままの私はどうなんだろう…って、必死に蓋をして抑え込んでいた私が見えたんだ。でもそれは絶対に見せちゃいけない私だから、彼に抱き寄せられる腕の中でそっと元の場所にしまい込んだ。
帰宅後、約束通り母とちゃんと話した。大学生の彼に連れられて帰ってきた私への第一声は、家を飛び出していったことと人様に迷惑をかけたことへの説教だったけど、涙を流しながら無事を確認されれば、彼の話した通り心配されていたことが痛いほどに伝わって、気づけば自然と口から「ごめんなさい」と謝罪の言葉が出た。玄関先で2人で抱き合って泣いた後、送ってもらったお礼に母が彼をご飯に誘ったけど、彼はお店があるからと車で走り去っていった。彼を見送った後、私は靴擦れした足に絆創膏を貼り、着替えるために自室へ入ると、机の上に飾られた黄色い花が枯れて萎れていた。
ありのままという意味をもった黄色い雛菊の花。もらって意味を知った日は、無理して大人の女性になろうとしている私に対する嫌味だと思った。それは私自身がいちばん解っていたことだったから腹が立ったし、気に食わなかった。でも今日彼が見せた涙を思い出せば、同時に言われた言葉も蘇った。
『大人びてなくても、必死に努力しようとしなくても、ありのままの君を好きになってくれる人が居ると思ってしまうんだよね…。だから姫奈ちゃんの努力は凄いと思うし、それを否定するつもりはないよ。でも…それでもやっぱり、そのままの姫奈ちゃんも十分素敵だよっていうのも覚えておいて?』
努力を否定されたわけじゃないのに、ただ自分が思い込んでいただけで、彼をちゃんと見ようとしなかったのは私自身だった。いつだって彼は私を見てくれていただけだったのに…そう思えば、枯れた花を見て哀しくなった。
翌日、スマホでお店の名前「エトワール」を検索して、学校帰りに寄ろうとした。検索した通りに歩いて行けば、駅から大通りではない路地に入っていく。途中夜のお店が立ち並ぶ通りを歩きながら私は気づいた。昨日彼が女性と歩いていた道だと。そしてこっそり後をつけて辿り着いた店が、そこにはあった。
『それでばあちゃんは今の花屋を夜の店が多い、人通りの多い路地とは離れた場所に店を構えたんだ。昼間の花屋じゃない、夜働く人たちや必要な人のために、夕方から開店する店を』
昨日話していた時には気づかなかった。大学生の彼がおばあさんから継いだ花屋こそ、私が昨日ショックを受けた場所だった。それでも私が傷ついたことと彼とは無関係で、この花屋も私とは何の関わりもない…と自分に言い聞かせて心を落ち着けていると、店の中から女性が出てきて私に声をかけてきた。
「お客さん? ごめんなさいね、今当摩…あ、ここの店長ね、留守なのよ…って、こないだの女子高生だ。ほら、憶えてない? 一度駅で会ってるんだけど…あなたの彼と一緒に」
声をかけてきた女性を見て、私は言葉を失った。そこに立っていたのは、紛れもなく昨日の女性だった。何度も彼と一緒に居るところを見た、私とは違う本物の大人の女性。そして彼女の口から出た、当摩という名前と親し気な雰囲気に、私の心は揺らいでいた。
「ど…してあなたがここに居るんです…か。彼とはどういう関係…ですか」
動揺のあまり、途切れ途切れになりながらも必死に言葉にすると、彼女は首を傾げた。
「彼ってどっち? あなたの彼氏? 当摩? あ、ちなみにあなたの彼氏とは仕事の付き合いって聞いてない? でもびっくりしたわ、女子高生と付き合ってるなんて思わなかった。それ以上にびっくりしたのは、あなたね。昨日もここへ来たでしょう? 随分大人びた格好してたから、あなただと解るまでに時間がかかったわ。彼氏のためにあんな格好するなんて健気だけど、無理してない?」
女性から昨日のことを指摘され、私はかあっとなった。こっそり後をつけたけれど、2人を見ていられなくてすぐにその場を去ったはずなのに、気づかれていたことも、無理してないかと問われたことも、恥ずかしくてつい言葉が強くなった。
「あなたには関係ないです! 私がどんな格好して彼に会ったって、彼は大人の女性になろうとしてくれる私を好きだと言ってくれています。好きな人のために努力するのは悪いことじゃないでしょう!?」
「…そうね。ごめんなさいね、私が口を出すことじゃなかったわね。ただ、当摩があなたのことを話す時のことを思うと、無理してるんじゃないかって、思わず私も心配しちゃったのよね。制服姿のあなたを見たら余計にね。それで、今日はどうしてお店に? あ、私は留守番なの。お前はどうせ暇だろうからって、昨日も留守番頼まれたんだけど、昨日抜け出したせいで昨夜も随分遅くまで仕事してたんだけど、今日は今日で他の従業員と一緒に配達に行ってるのよね」
女性がすぐに謝ったことで、私が如何に子どもじみているのかを突きつけられたように感じてしまい、自分がとても惨めになった。その上、当摩と名前を出される度に、少しずつ嫌な気持ちが浸透していった。けれど、彼女の口から留守番を頼まれたと聞けば、親し気な様子を見せられているようで、心が少し重くなった。その上、昨日仕事を抜け出したせいだと聞けば、私のせいだと酷く気持ちが沈み込んでいった。
「…帰ります。昨日の彼の…当摩さんの様子が気になって来ただけなので、仕事で忙しくしてるなら大丈夫だろうし、帰ります」
「え、あ…ちょっと」
女性の呼び止める声を無視して、私は来た道を戻って帰宅した。その日の夜は、彼氏からのメールも届いていたけど、彼のことを話す女性を思い出して、彼からのメールなのに目を通す気にはなれなくて、そのまま放置して寝た。けれど眠りに就くギリギリまでずっと、彼女が話す親し気な様子が頭から離れなかった…。