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【エッセイ】町の音楽祭(後編)

 そして、夕飯のときにも音楽祭ネタは持ち越され、途中で姉まで帰宅し、それに同調して盛り上がり始めた。僕はその会話の流れからますます遠ざかり孤立する一方だった。  
 まるで傷を負って群れから逸れた渡り鳥のような状態だ。家族はそんな僕の心理状況など知る由もない。傷口にさらに追い討ちをかけるかのごとく次々と音楽祭ネタを繰り広げていく。さっきまでじわじわと押し寄せていた後悔の波はもはや荒波と化していた。そんな状態でも「おれも行けばよかった……」などという言葉は意地でも吐きたくない。もっと惨めになるだけだ。自分の首を自分で絞めることだけは避けたいという思いでいっぱいだった。
 そんな苦痛の時を過ごしていると、溺れている僕に救いの手が差し伸べられた。
「見に行ってないんやったら最後の音楽イベント八時からやから行ってきたら?」と母が僕に提案を持ちかけてきてくれたのだ。この時ばかりは“お母様”といった感じだった。一瞬だけ四十五過ぎのおばさんが天使に見えたような気がする。それは気のせいかもしれないが。気のせいだとしても少々音楽祭ごときに追い込まれすぎだ。無いとわかった途端に何がなんでも手に入れたくなる感情と同じようなものが作用していたに違いない。うん、そうに決まっている……。
 僕はわざわざ少し間を置いて「今何時やろー?」とわざとらしい台詞を吐いた後、冷静を装って時計を見た。すると時計の針は七時四十五分を指しているではないか。僕は残りの茶碗の飯を口いっぱいにかきこみ、「八時で最後やったらちょっとぶらぶら見に行ってみようかな~」と言いながら席を立った。どこからみてもちょっとぶらぶら見に行くという落ち着きなど無い自分が、家族に映っていることは承知の上で鞄と上着だけを手に持ち、即急に家を出て、ちゃりんこを走らせた。
 しかし、途中重大なことに気がついた。どんな人が演奏して、どんなジャンルで、とまでは知らなくても見ることはできる。しかし、場所がわからなければ話にならない。おまけにおちおち探している時間など全くない。町と言ってもちゃりんこ一つで動き回れるほどの広さだったのが幸いして、運よく適当に曲がった路地にあった一つのジャズ喫茶が目に止まった。
 周辺には数人の人が集い、どうやら、今から演奏が始まる雰囲気が辺りに漂っている。核心を得るために僕はオレンジ色の薄明かりで照らされた店内を覗き込んだ。
 すると店の奥にピアノが置いてあり、ピアノの前には多種多様のギターが綺麗に配列されている。オレンジの照明がいっそうギターの高級感を惹き立てていた。
 ギターも好きだし、アマチュアとは言え、人様の前で演奏するのだからそこそこの腕前なんだろうと思い、ここでの演奏を見ていく事にした。
そんな感じでとりあえず演奏が始まるまでの間、ジャズ喫茶の常連と思われる人達に混じって待機していた。
 すると、さっきまでは星が見えていたのに突然大粒の雨が降り出してきた。なんだか嫌な予感がした。仕方なく、店の前の小さな屋根で雨宿りをすることになった。
 狭いスペースでみんな肩を寄せ合って雨宿りをしていたわけだが、僕だけ明らかに浮いていた。三十前後の二人組みの女性や、いかにもジャズを聴いていそうなダンディーな親父集団に混じる僕。さらに、その集団のど真ん中で雨宿るハメになった。
 その光景が異様で仕方なかった。いっこうに雨が止む気配が感じられない。その時ようやく、「準備が出来ましたので中にお入りください」という指示が出された。しかし、僕は常連客に混じって、本格的にこのライブに参加する目的できたわけではない。家族の会話に馴染めず悔しかったから、というだけの理由で家を飛び出してきただけだ。店の外から、雰囲気だけでも味わえれば十分満足なのに……。と心の中で嘆きながら渋々常連客の波に流され店に入った。
 すると一人ずつ暗黙の了解だかなんだか知らないが順番に飲み物を注文していくのだ。僕もその波に乗ってしまっている以上、「いりません」など言える訳がない。そして自分の番がきて、五百円のパイナップルジュースを注文した。さっき、腹いっぱいご飯を食べたばかりで、胃の中にパイナップルジュースが入る余地などない。
 まだ演奏も始まっていないのにもう帰りたくなった。こんなことなら、家のベットで寝転びながらウトウトと睡魔と闘っていた方がよっぽど幸せだったかもしれない。家族の会話に馴染めなかったから何だって言うのだ。そんなことどうでもいいじゃないか。むきになり過ぎたゆえにこういう結果になってしまった……おれはほんとバカだ……。
 人が二十人ほど入れるほどの小さな薄暗い店内はびっしりと人で埋められた。そしてすぐに今から演奏すると思われる三人組みのギターリストが登場した。そのうちの一人がマイクを手にとって自己紹介を始めた。
 その時、店の雰囲気はというと、僕以外の人は目をぎらぎらさせて待ってましたと言わんばかりに興奮して歓声をあげている。その時点でも周りとの温度差を体で感じ改めて自分の場違いさを感じた。しかも、大人しく席も後列に座るつもりだったのに、親切なおばさんが、「お兄ちゃんここ空いてるよ!」と、ベストポジションである一番前の席をキープしてくれたのだ。「あ、どうも」といいながらとりあえず座った。しかし、こんな前の席に座ってしまえば、途中で抜けることすらできない。おばさんには悪いが、有難迷惑そのものだった。
 そして、演奏が始まり、店内はジャズの洒落た音色に包まれて和やかなムードになった。ジャズに興味は全くなかったが、やはり生の演奏はなかなかいいもんだと少し思った。
 しかし、初めのうちは新鮮で一瞬心を打たれたが、最終的に一時間半ほど演奏を聴いていたので、途中は睡魔との戦いで必死だった。さすがに演奏者の目の前で爆睡するほどの勇気はなかった。
 いよいよ、無事演奏がすべて終了し、これでやっと開放されると安堵したのも束の間、まだこれで終わりではなかった。演奏が終了したにも関わらず、だれも席を立とうとしない。みんな順番に「頑張ってください!」と、目の前でエールの言葉をかけながらCDまで買っている。それどころか握手まで求めている人までいるではないか。
 僕はそんな最中、こっそり店から脱出しようと試みたがギターを演奏した三人が僕のところに来て話かけてきた。
「君はじめて見る顔だけど、どうやって僕らのことを知ってくれたの?」と微笑みながら僕に問いかけてきた。“適当に通りかかってなんとなく店に入ってしまった以上抜け出せなくなった”なんて言えたもんじゃない。咄嗟に口から出た答えが、「前からすごいかっこいいなと思っていました」という苦し紛れのコメントをした。
 それなのに彼らは、「来てくれて本当にありがとね! またライブあるから見にきてください」と頭を下げてきた。妙な罪悪感を感じた。
 その罪悪感が、ほしくもないCDまで買わせた。こればかりは仕方がないと思い直して僕も最後に「応援してます。頑張ってください」と一言だけ言い残し、これでCDまで買ったのだから誰に気兼ねすることなく堂々と店を出られると思った。がしかし、関門はまだ続いていた。今度は出口の前で、店のマスターらしき人がカゴを持って待ち構えている。帰る人たち一人一人に、「チップお願いしまーす」と声をかけている。僕は正直「いい加減にしてくれよ……」と腹が立ってきた。マスターに腹が立ったというよりもここに足を踏み入れた自分自身に腹が立ったのだ。
 カゴを覗くと千円札で敷き詰められ、五千円札までもちらほら顔を出している。チップとはせいぜい何百円の世界ではないのか? それとも僕がただの世間知らずなだけなのか? いずれにせよ貧乏学生の僕にとっては痛すぎる失費だ。これで勘弁してくれという思いで五百円玉を投げ入れて外に出た。やっと開放されたのはいいが、最後に流し込んだパイナップルジュースで胃が悲鳴を上げている。苦しい…気持ち悪い…色々な腹の虫が治まらぬまま早々と家路に着いた。
 飲みたくもないパイナップルジュースで五百円、しぶしぶ買ったCDで千五百円、最後にカゴに投げ入れた五百円で合計二千五百円を浪費して僕の生まれて初めての音楽祭は幕を閉じた。最終的に僕の頭に残ったのは胃痛と無駄な出費を余儀なくされた苦い思い出だけだった。


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