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東大で基礎研究をしていて陥った教養主義的なアカデミック症候群


この時期になると「修論がやばい」と言っている人が増えるが、しっかりと研究をしていた人は10月に「修論がやばい」とか言わない。10月に「修論がやばい」と言っている人は、修士2年の間の成果が修士論文しか見込めない人だろう。しっかり研究をしていた人はこれまで書いた論文や発表した研究をただ流れに沿ってまとめればいいだけだし、修論なんていう外部に発表されないものに大きな労力を注ぐことはせず、修了できる最低限のラインを狙って労力を注ぐだろう。

別に、修士2年の間の成果が修士論文しか見込めない人を馬鹿にしたいわけではない。ほとんどの人間が大学時代に専攻していたり専門にしたいたりしたこととは別の仕事に、生きるために就く。多くの18歳が高校卒業後の進路に大学を選ぶことを、私は本当に不思議に思っている。だから研究を頑張ってもいいし頑張らなくてもいいと思う。頑張らなかったら、10月から「修論がやばい」と言ってなんとかすればいいと思う。

私はといえば、一応研究室に行くけれど、行っても何もすることがない。おしゃべりしたり散歩したり本を読んだりして時間を潰している。去年までは「研究」というものを毎日生きるための目標に設定していたので、土日も夜も休まず作業していたが、挫折し、今となっては、研究は就職に必要な修士号を取るための道具に過ぎない。論文が一本アクセプトされた私は修士号を取るにはそれで十分だろうと思っているので、もうやる気がない。もし、奨学金が200万円分全額免除になると学校側が保証してくれるならもう少しくらいお金のために頑張ってもいいけれど、お金以外に研究に取り組む原動力が今の私には思いつかない。それどころか、数学や物理の話を周りでしている人がいるだけで吐きそうになってくる。私の本名をgoogleで検索すると、東大の入学式でインタビューを受けている私が「物理が好きなので大学では物理がやりたいです」と非の打ち所のない爽やかな笑顔で応えているサイトが見つかるが、この6年間で私はこんなにも物理(と数学)が嫌いになってしまった。

私が想像していた大学院生の理想は、森博嗣の『喜嶋先生の静かな世界』で描かれているような、「研究室に所属した学生が、知的好奇心に純粋に従って、自分の手を動かして少しずつ新しい答えを創っていく作業である研究にどんどん夢中になっていく世界」だった。そんな世界を手に入れるために、元々好きだったことを嫌いになるまで自分を追い詰めてやってきた。結果得たのは、学科総代と返さなくていい奨学金と査読論文一本(自分では面白いと思えない研究)ともう無理だという挫折経験。これは成長なのかしら。

同期に、「学会で最優秀発表賞を取った人と比べて自分に劣等感を抱いてしまう」という悩みを持つ人がいる。そんなことに劣等感を抱くべきではないと思う。私は、自分が頑張った証として手に入れた幾つかの実績はありがたいと思って素直に頂いている。それは私自身が嬉しいからというよりも、他の人に説明がしやすいからだ。私が実際に研究ができるとしてもできないとしても他人は実績を見て勝手に判断してくれる。だから実績はないよりあったほうがいいと思う。けれど、研究を志した人間に囲まれた中で、劣等感を抱くポイントとしては間違っていると思う。

「時田さんは誰かに劣等感を抱くことはある?」と聞かれた。

私は、「実績を持っている人に劣等感を抱くことはないけれど、自分の研究分野について楽しそうに語っている人は心から羨ましいと思う」と正直に答えた。

私の理想は、「純粋な知的好奇心から生じた面白い研究をすること」だった。基礎研究の大学院の雰囲気もまさに「純粋な知的好奇心から生じた面白い研究をすること」を正義としているのだ。むしろ、大学の雰囲気に順応するために後から私の理想がそう形作られていったと言ったほうが正しいだろう。周りには、仲間内で大きな声で楽しそうに議論したり、何か質問するとすぐに時間をかけて丁寧に教えてくれたりする人たちが大勢いる。研究の能力が上がるというのは、すなわち、純粋で質の高い疑問をどれだけ持てるかということであり、言い換えると、他人の研究に対しても興味関心を持ち、さらにどれだけクリティカルヒットな質問ができるかがその人の研究能力を示すといっても過言ではない。そんな雰囲気なのだ。

だから私はここ数年間、ずっとつまらないという感情が生まれるたびに蓋をして、どこかに面白さを見出す努力をしてきた。しかしこれは今では反省点だと考えている。面白い、つまらないという自分の感情に素直になるべきだった。大学から大学院にかけて私は教養主義的な価値観を植え付けられていたので、「面白いと思えないのは面白いと思うのに必要な知識を持っていない自分のせい、すなわち教養不足のせいだ」と信じて疑っていなかった。しかし、好奇心というのは意図的に捻出できるものではなかった。3年間全力を捧げても、自分の研究にも研究室の他のメンバーの研究にも純粋に面白いと思えなかったのが私の本当の挫折であり劣等感だ。これから研究を始める人(昔の私)に伝えたいのは、最初の2,3ヶ月で面白さの破片が見つけられなかったら、きっとその先も難しいだろうということだ。大学院でのヒエラルキーは知的好奇心の大きさで決まるから、知的好奇心を持つふりをしてしまいがちだが、だからといって自分が面白くないと思うものを無理やり面白いと思おうとするのは、逆に自分自身の本物の好奇心に嘘をつくということで、続けているとだんだん感情を失うことに繋がるのだ。



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