笑ったら「差別」?笑いと嗤いの違い
こんにちは!
さーちゃんです(*^^*)
「命の熾火を守りともに育てるFirekeeper」として、
セクシュアルマイノリティの子どもたちとその保護者の居場所作りや啓発活動を行ったり(ここいろhiroshima)、神石高原町豊松地区の子育て支援コーディネーターをしてます。
現在、【火】を通して自分自身見つめるファイヤーリトリートというもののプログラム化も行っています(*^_^*)
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今回はここいろhiroshimaの講演会でいただいた質問で、深く考えてみたいものがありまして。
小学校の保護者向けに講演会をさせていただいたときに、感想文と一緒にいただいた質問です。
お笑い芸人がゲイのキャラをデフォルメして演じて笑いを取ることについて、どう思いますか?
私は個人的にそういうキャラを現実にはありえないぐらいデフォルメされた架空の人物だという認識で笑っていましたが、そのキャラを笑うことはLGBTの人たちを傷つけることになるのでしょうか?
「中年女性」、「太っている人」、「ハゲキャラ」などとは違った扱いになるのでしょうか?(私もこれらの属性に当てはまるものがあり、ちょっと腹が立つかも。でも芸人さんの技術が面白ければ笑います。)
そのあたりのことを当事者の方がどう思っているのか知りたいです。
この「笑いと差別」に関する疑問。
あっきーとも定期的に出る話題なのですが、そのたびに2人でうんうん唸って悩みます。。。
質問された保護者の方へは、後日文章で回答させていただきました。
まずは、私なりに回答したものをシェアしますね。
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ご質問ありがとうございます^_^
芸能人や芸人さんのキャラやネタとして、デフォルメされたLGBTの人の真似や言動で笑いをとる姿を目にすることは多々ありますよね。
特に一昔前は当たり前にテレビで流れていたように感じます。
「そのキャラを笑うことはLGBTの人を傷つけることになるのでしょうか?」
という質問については、
傷つく方もいれば、何とも思わない方もいますし、本当に人それぞれです。
逆に、自らそのようなキャラや言動を振る舞うことで、自分のセクシュアリティを表現し、プライドをもっている当事者の方もいます。
なので、ひとくくりに「笑ってはいけない」「笑うことは差別だ」という風に断言することはできないです。
私の個人的な意見としては、「その人が自ら個性を際立たせてやっているネタ」と「周りの人が、その人の個性を嘲る(あざける)ようにしているネタ」かどうかで、見ている側の感じ方も変わるじゃないかと思ってます。
ハゲてる人、太っている人、中年女性、LGBT、それらの自分の個性を自分で際立たせて見せたり、自虐するネタや、周りの人がその個性をリスペクトした上でいじったりするのは、【笑い】に昇華していくのだと思うのですが、
そうではなく、目の前にいる人の個性をバカにしたり、蔑むようにして笑いをとるスタンスが前提にあると、笑いとは異なる【嗤い】になるのだと、私は感じてます。
テレビで演じている芸能人や芸人さんは、その人たち同士で信頼関係やリスペクトがあるから、多少激しいいじり合いをしても、【笑い】として成立してると思うので、
結局、【関係性の問題】だと私は捉えてます。
同じ「お前デブだなあ」という言葉でも、関係性が違えば、親しみを感じることもあれば、腹が立ったりすることもあると思います。
これは、LGBTという個性だけでなく、人とは異なる際立つ個性をもつすべての人に当てはまると思います^_^
世界にはいろんな考え方、感じ方の方がいるので、その人がどう考え、感じているのかを大事にしていけば、きっとみんなで笑い合えるような社会になるんじゃないかと私たちは考えてます✨
ご質問ありがとうございました^_^
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こんな感じで回答しました。
みなさんはこの回答を読んで、どう思われましたか??
そのときの自分ができる精一杯の回答をしたのはしたのですが、正直、私の中でもう少し説明したい、補足したい気持ちがありまして。
今日は、この私の回答の中に出てきた【笑い】と【嗤い】の違いやそれらにまつわるあれこれを、もう少し掘り下げて考えていこうと思います。
そもそも「差別」ってなにさ?
まずこの【笑い】と【嗤い】の違いを考える上で、「差別」ってことがいったいなんなのかを話す必要があります。
まず「差別」を考える上で、大事な言葉が「区別」
区別と差別、一文字違うだけ似ていますが、意味は全然異なります。
「区別」は、違う部分があることを認識すること。
りんごとみかんを見て、
「りんごは赤いね」
「うん、赤いね」
「そんで、みかんはオレンジ色だね」
「うん、オレンジだね」
って感じで、ただただ対象同士の違いを認める感じです。
ただ、この違う部分・異なる部分に「劣っている・悪い」というような蔑むようなジャッジを加えると「差別」になります。
りんごとみかんを見て、
「りんごは赤くて素晴らしいよね」
「うん!本当に素晴らしいね!」
「それに引きかえ、みかんのオレンジ色ったらなんてけがらわしいの!どうなの、あんたもりんごみたいに赤くなってみなさいよ!え!?」
「全くだ!みかんのオレンジ色なんて最低だ!!」
分かりやすくするためにかなり誇張していますが、りんごよりみかん派の私にとっては書いてるだけ胸が痛いです。。。
人類は脳みそが進化して、言葉や概念で世界を切り分けて理解したり、比較することで自分と他者を知ったりする生き物。
だから、どうしたって「区別」はなくなりませんし、必要なこと。
でも、「差別」はその区別に「相手を蔑むようなジャッジ」を加えることで生まれます。
ようは「差別フィルター」をかけて相手を見てる状態。
まず、この「フィルター」がどんな種類かで、【笑い】か【嗤い】かの違いが生まれると私は思ってます。
【笑い】は相手に対して【リスペクトフィルター】をかけてます。
だから、安心して見ていられますし、心地よく笑えます。
一方で、【嗤い】は相手に対して【差別フィルター】をかけてます。
これは、見ている側も辛くなったり、笑えないものになります。
だって、目の前で相手を蔑んでるのを見せられるんですよ。
それを「面白いだろ!笑え!」って言われるのは、
いじめに加担しろって言われてるようなものです。
質問の回答で【笑い】と【嗤い】を生む違いとして「関係性の違い」に焦点を当てたんですが、それに付け加えて「フィルターの違い」も大事だなと感じました。
どれだけ関係性が近しくて仲が良くても、「差別フィルター」をかけられて自分のことを見られたら嫌ですよね。
関係性が深ければ、ある程度は差別フィルターも許容できるかもしれませんが、度を過ぎれば「馬鹿にされた、嗤われた」と感じると思います。
逆に「お前キモいんだよ!」という一見悪口に見える言葉も、
その言葉にリスペクトや親愛の意味が込められることが伝われば、相手はすんなり受け取れたり、むしろ嬉しく感じるかもしれません。
この【関係性】と【フィルター】は、人との関わりを考える上ですごく重要なものになると思います。
3つの異なる面白さ【funny・interesting・humor(wit)】
次に、【笑い】と【嗤い】を生む違いとして、人が感じる「面白い」という感情について考えます。
人が「面白い」と感じるときの感覚には、いろんなものがあり、一言に「面白い」といっても、全然違う種類の面白さがあります。
ここでは3つの異なる面白さとして【funny・interesting・humor(wit)】を取り上げてみます。
1番分かりやすい「面白い」はfunny
次に、interesting
最後にhumor(wit)
って順番で、説明していきます。
funnyは、「お笑い」と聞いてすぐ思い浮かぶ「面白さ」だと思います。
リズムネタとか顔芸やひょうきんな動き、ボケとツッコミのチグハグな会話など、子どもにでもその面白さ、おかしさが伝わるものです。
そんなに深く考えなくても瞬間的に笑えるものが多く、瞬発力やノリが大事な面白さでもあります。
ギャグやコント、漫才など、一般的にお笑い芸人さんが扱うものは、このfunnyの面白さと言っていいでしょう。
interestingは、どちらかというと「興味深い」という意味合いで使われる「面白さ」で、知的好奇心がくすぐられたり、知らないことを知ったときに感じる面白さです。
本や動画で新しい知識を得たり、
今まで行ったことのない場所に行ったり、
会ったことのない人々と触れあったりする中で、
「こんな世界があるんだ!」
「今まで全然知らなかった!面白い!!」
そんな風に、未知との遭遇を楽しんで自分の世界が広がっていくような「学びや気づき」の面白さと言ってもいいかもしれません。
これは、funnyよりもゆったりと時間をとって味わう必要がありますし、場合によってはちょっと真面目な雰囲気の場であることも。
そして、最後のhumor(wit)は1番説明するのが難しい「面白さ」です。
あまり日本では馴染みのない、いわゆるブラックジョークや風刺的な面白さで、人によって全然笑えなかったり、怒りだしたりする人も出ます(笑)
humor(wit)は、日本語では「とんち」とか「機転のきいた一言」とかって感じで、よくよく聞かないとその面白さが分からなかったり、ただの屁理屈にも聞こえてしまいます。
この取り扱い注意(笑)なhumor(wit)に関しては、もう少し説明していきますね。
humor(wit)は【痛み・悲しみ・不条理】から生まれる
3つの異なる「面白さ」の中で、1番捉えるのが難しいのがhumor(wit)
なぜ難しいかっていうと、funny・interestingとは異なる出所、より深い場所からでてくる「面白さ」だから。
funnyやinterestingは、パッと分かりやすい面白さであったり、自分の興味関心にもとづいた興味深さであったり、割と扱いやすいものです。
でもhumor(wit)は、自分や誰かの、痛み、悲しみ、不条理を昇華して生まれるもの。
普段そういったものはあえて取り扱おうとは思わないですし、隠されているものですよね。
このhumor(wit)をバンバン売りにしてやっているのが、スタンドアップコメディをやっているウーマンラッシュアワー村本さん。
原発、在日韓国人、とにかく社会問題という社会問題を独自の視点で【笑い】に変えてしゃべくるんです。
私は1度ひょんなことから村本さんの独演会に参加したことがあり、
村本さんの世間一般的に言うと「扱いづらい人たち」の抱えている痛みや悲しみ、不条理をどんどん【笑い】に昇華している姿を見ました。
村本さんが話せば話すだけ、その場にいた人たちの温度がどんどん上がっていって、
なんというか、
すごく痛快で、すがすがしい感じがしたんです。
表面的に痛みや悲しみを笑い飛ばしてるんじゃなくて、
深い部分で、本質的なことを捉えているから【面白い】と思える。
深刻に捉えられがちな社会問題の中にある「おかしさ」をみんなに見せて【笑い】に変える。
なんか、笑ってたら深刻に捉えてた自分がバカみたいに思えるんですよね。
humor(wit)には、【深刻さ】を緩める力があると思います。
またhumor(wit)には、裸の王様に「なんで王様は裸なのさ?変なの~」と平気で言ってしまう少年のような、隠されている真実や滑稽さを暴いてしまうパワーがあります。
もちろん暴くだけじゃなくて、におわしたり、煙に巻いたり、あの手この手で聞き手を翻弄する。
その姿はまるで、トリックスター・ペテン師です。
ネイティブアメリカンでは人々にhumor(wit)を通していろんなことを伝えたり、ほのめかすトリックスターのことを「ヘヨカ」と言います。
そんな「ヘヨカ」をあらわす動物が「コヨーテ」。
ネイティブアメリカンの人たちの中には、「コヨーテ・ティーチング」という言葉があるほど、なじみ深く大切な動物です。
コヨーテのようにhumor(wit)を上手に扱って、取り扱いづらいものも【笑い】に変えられる存在って、
現在じゃあまり少なくなってきたんじゃないかなあと、個人的には感じています。
【笑い】と【嗤い】の違いを生むもの=【関係性】×【フィルター】+【深さ】
さあ、ここから【笑い】と【嗤い】の違いを生むものについて、まとめていきます。
まずは【関係性】のあるなし。
関係性があればある程度のいじりや許容できたりしますが、関係性がないと言葉の意図が伝わらず、誤解を生みやすくなります。
そして【フィルター】の違い。
フィルターが、リスペクトフィルターなのか、差別フィルターなのか。
どれだけ関係性があっても、差別フィルターで自分のことを見続けられたら、気分が悪くなりますし、これは【嗤い】に直結します。
どんな人と接するときも、【関係性】×【フィルター】は絶対に大事。
関係性もなく、差別フィルターで相手を扱ったら、間違いなく【嗤い】になってしますよね。
(※たとえその場で取り繕ってても、雰囲気で伝わってしまいます。)
【関係性】×【フィルター】は芸人さんとかそう言うの関係なく、どんな人と接する時も大事にしないといけないところだと思います。
ただもう一つ、【関係性】×【フィルター】に付け加えて、【深さ】の問題があると私は思っていて。
funny
interesting
humor(wit)
は、それぞれ「扱ってる内容の深さ」が全然違う面白さで、
funnyは、割と浅めで表面的な面白さ。
リズムネタとか顔芸や動きとか子どもにでもその面白さ、おかしさが伝わるもの。
瞬発力やノリが命だから、人生の深い部分を扱うのには向いてない。
interestingは、自分の知らないことを知る面白さ、興味深さだから、funnyよりは深め。
そしてhumor(wit)は、interestingなもののもっと奥にある、その人の感情とか自分じゃどうしようもない性とか業とか、そういうものを扱うことで生まれる面白さ。
ブラックジョークとか、村上さんのスタンドアップコメディとかは、まさにこれ。
この扱おうとしてる【内容の深さ】と【面白さ】がズレると、意図せずとも【嗤い】のようなものが生まれてしまうんじゃないかと思います。
特にfunnyであつかっちゃいけないレベルの内容をfunnyでとり取り扱うと、不快感を覚えたり、馬鹿にされたって思う人が出るんじゃないかな。
テレビで扱ういわゆる【お笑い】は、万人受けするfunnyの面白さが多いのですが、
funnyのレベルで扱ってはいけないもの(人権や人の生き方、アイデンティティに関するもの)まで、funnyで扱ってしまうから、抗議が殺到したりするんだと思います。
扱う側がそんなつもりがなくても、見てる側の感度とズレてるものを見せると、【嗤い】を見せられてるように受け取られてしまうのでしょう。
LGBTのことを例にすると、
一昔前はLGBTに関することは表面的にしか知られていなかったから、よく知らなくてもfunnyで扱って大丈夫だったし、世間一般にそれで笑える人も多かった。
でも、今はいろんな当事者の方が表に出てきて、
世間の理解がfunnyからinterestingや humor(wit)の方へどんどん進んできたからこそ、表面的にfunnyで扱われることに違和感を感じる人も増えていった。
「昔はこんなことなかった!」
って言う人もいますが、
昔から不快感を感じてた人や違和感を覚えてた人はいます。
ただ、それが目に見える形で出しやすくなっただけで、人の感じ方の仕組みは変わってないはずです。
質問者さんが出してくださってるハゲ、デブだって、funnyで扱われたら違和感を感じたり嫌な気持ちになる人がいると思うんです。
一般的に「個性的」と言われるものは、どうしても笑いのネタにされるもの。
だって人と違う部分、際立ってたり偏りがある部分には、「面白さ」が生まれます。
でも、どんな個性だって、funnyのような分かりやすい面白さだけじゃなくて、interestingやhumor(wit)をはらんでます。
言うなれば、funnyは軽くて食べやすいスナック菓子のようなもの。
そんなスナック菓子を、自分が食べたこともない調理法も知らない、癖のあるカカオ100%チョコレートやブルーチーズで作ろうとしてると想像してください。
想像しただけで、クソまずくなる可能性、めちゃ高いの分かりますよね(笑)
まずは、その食材のことを知ること、どんな風に扱ったら美味しくなるのか調べたり、何度も試作をしないと、万人受けするものは作れません。
funnyもinterestingもhumor(wit)も全て知った上で、funnyに挑戦するのと、
とりあえずウケそうからって安易にfunnyに挑戦するんじゃ、まったく別物の笑いになります。
取り扱うことが難しいものを万人受けするように調理できるのは、一流のシェフだけ。
そして、一流は相手へのリスペクトを忘れないです。
やはり、リスペクトっていうフィルターは常に大事になってきますね。
笑える人と笑えない人の違いは「深刻さ度合い=客観性があるかどうか」
一方で【笑い】を考える上では、受け手側についても考えないといけない問題があります。
というのも、
洒落が通じなくなった
全部本気で受けとられて笑ってもらえない
そんなお笑い芸人さんの声もちらほら聞きます。
(別に友達にいるわけでないのですが、テレビやラジオで見聞きしたものです(笑))
一昔前だったら笑ってもらえたものが笑ってもらえなくなったのには、
社会が複雑で曖昧で多様になってきて、絶対的にウケる鉄板ネタのようなものがウケづらくなってきてることもありますが、
もう一つは、あまりにも余裕がなくて深刻な状態にハマってる人が増えたから。
これは大きいんじゃないかなあって思います。
人のちょっとした発言や冗談でも、
攻撃された!!
侮辱された!!
自分の身を守らないと!!
と感じてしまい、攻撃的になったり、強い口調で言い返したり。
そういうのが、テレビへの抗議文やSNSでの炎上コメント祭り!みたいなことにつながるんだと思います。
深刻な状態とは、客観性を失っていて、常に世界は悪い方へ進んでいると思い込んでしまっている状態です。
いつ誰に攻撃されるか分からない。
自分の身は自分で守らないと。
隙を見せたらやられてしまう。
そんな風に、自分の世界がいつも危険に晒されているような状態になってしまっていたら、きっと冗談なんか笑ってる場合じゃないですよね。
もちろん自分や大事な人たちの命や安全、幸せが脅かされて今にも消えそうなときは、必死に抵抗して戦ってでも守らないといけないときもあると思います。
でも、それはあくまでも最終手段だし、非常事態のときだけ。
通常は、お互いの言い分や想いを分かち合ったり、一緒にご飯を食べたり笑い合ったりすることで、ほとんどのことは解決します。
でも、冗談が笑えない状態って、
その言われてる内容について、自分自身がまだ消化できてなくて深刻に捉えていることだったりすると思うんです。
自分にとってとても大事なことだから、
アイデンティティや生き方に関わることだから、
そういうことを人から指摘されたり、冗談として扱われたら、
どうしても反応的になったり、腹が立ったりしてしまうし、「バカにされた!攻撃された!」って感じると思います。
もしかしたら人によっては、自分の満たされなさや悲しみを「攻撃する」「反論する」というやり方で埋めようとしているのかもしれません。
でも、それじゃあいつまでも満たされないし、深刻な状態からも抜け出せません。
深刻な状態でい続けると、自分も周りもしんどくなるし、生産的なことがしづらくなります。
じゃあどうしたらいいのか。
答えは単純で、笑ってしまえばいいんです。
無理に笑わなくても、
深刻な状態にハマってしまうテーマがあったとしても、
そうじゃない時は笑ってしまえばいいんです。
笑うと何がいいかって、その対象を客観的に見れるようになります。
自分にとって大事じゃないことやアイデンティティや生き方に関係しないことは、簡単に笑えるんです。面白がれるんです。
なんかバカなことやってるよ!
とか
へえ!そんなパターンもあるんだ!
って面白がったり、笑えるのは、自分と対象を離して客観的に見れる証拠。
そういう意味でも、funnyやinterestingは客観視しやすいから扱いやすいです。
でも、humor(wit)は、見えない奥底に痛みや悲しみ、不条理が流れています。
それらと自分が近しいものを感じれば感じるほど、
まるで我がごとのように感じれば感じるほど、
深刻になって、笑えなくなる。
でも、その痛みや悲しみ、不条理さえも客観的に捉えて、超越して、それらの中にあるおかしさや滑稽さが見えた瞬間。
痛みや悲しみ、不条理が【笑い】に昇華して、人々を癒したり、勇気づけるんだと思います。
そこの域に達するには、笑いを提供する側もその笑いを聴く側も、かなりの自己鍛錬がいるはず。
humor(wit)はそういう意味で、かなり人を選びます。
取扱注意だけど、心や魂の深いレベルでスカッとしたり、泣けるほど笑えたりするんじゃないかな。
「あいつ冗談通じないよな」
「いっつも怒ってばっかりだし、正論ばっかりで疲れる」
そういう風に思われてしまう人は、
その人の中にどうしても昇華できない痛みや悲しみ、不条理があって、無意識に攻撃体制を生み出してしまっているんだと思います。
攻撃された!非常事態だ!守らねば!
そんな風に捉えてしまいがちな人にこそ、【笑い】ってすっごく力をくれると私は思うんです。
funnyでもinterestingでもhumorでも、
もうどんな面白さでもいいので、笑ってしまう。
一緒にふざけ倒して、
腹を抱えて笑い飛ばしたら、
気がついたら自分の抱えてた深刻さはどっかに消えてしまうんです。
笑った後って不思議と力が湧くと思うんですけど、
お笑い芸人さんのかっこよさってそういう、どんなものでも【笑い】に変えて【力】にすることなんじゃないかなって感じます。
余裕を感じにくくなってる時代だからこそ、笑うってことを私は大事にしたい。
誰も皆笑うことを忘れて
誰も皆塞ぎ込んでいても
私たちは笑おう
こぶしファクトリー/辛夷の花
わたしの大好きな歌の歌詞ですが、
塞ぎ込んで深刻になってるときには【笑い】が何よりも薬になります。
何かを突破する時に必要なのは、
知識や技術や方法論の前に、
【笑う】
っていう至ってシンプルなことなのかもしれませんね^_^
もちろん、笑ってばっかりで何もしなかったら何も変わりませんけど(笑)
でも、笑うことでエネルギーがチャージされて、「もう少し頑張ろう」とか「何かしよう」て思えることって大事なんじゃないかなって思いました^_^
これは人を蔑む【嗤い】では絶対に生み出さないエネルギーですね。
そんな私が最近一番笑ったのは、
友人が丸亀うどんで「鬼おろし肉ぶっかけうどん」を頼んだのに、出てきたのが肉のない「梅おろしぶっかけうどん」で、困惑している姿を見た時です(笑)
え!?これなの!?
写真と全然ちがうじゃん!!
なんか赤いし…
でも、自分が見間違えただけなのかも…
そんな風に心の中で葛藤していたのが、おかしくておかしくて!(笑)
うどん屋さんのお兄さんとうどんを何度も見て、「これ違うんじゃないですか?」アピールしても気づいてもらえず、結局注文し直してました(笑)
こんな些細なことでも笑えて、友人とも大爆笑できて、記事のネタにもできて、私は幸せです(*^^*)
今回の記事は、講演会の後に質問をしてくださった方のおかげ!
本当にありがとうございます^_^
あなたは最近笑ってますか?
どんなことで笑いましたか?
現在、【火】を通して自分自身見つめるファイヤーリトリートというものをプログラム化するためにモニターになってくださる方を募集しています(*^_^*)
ファイヤーリトリートを通じて、深刻さから抜け出して笑えることが増えるかも★
【募集定員】5名限定→満員御礼!!ありがとうございます!!
ただいまプログラム化に向けて準備中です!今しばらくお待ちください★
最後まで読んでくださりありがとうございます!
今日も応援しています!
ホーミタクエオヤシン。
2021.7.25 高畑桜