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錆びれた街に「地獄」と呼ばれる 工場があった。 その工場はあまりに大きく 曇りの日には頭が雲で隠れた。 いつもどすん、どすんという 鈍い音が響き渡り 煙は勢いよく空へ上った。 その工場の周りには高い塀があり 中の様子を近くで見ることができない。 唯一、塀からはみ出た建物の頭上部分を 遠くから眺めるだけだった。 工場は昼夜動いていたが、 人が出入りするところを 一度も見たことがない。 建物の周りを今にも朽ちそうな 細い階段がぐるりと巡っていたが、 その階段を上る者も
線のように月が細くなる夜だった。 リサが月に座っていると 彼がまたやってきた。 「今日は少しひんやりしてるね。」 リサがうんとうなずくと、 彼はこっちを向いてニコッとする。 「今日はたくさん雪が降ったんだね。 夜がこんなに明るいなんて。」 昼を過ぎたあたりから 雪がたくさん降り始めた。 リサは慌てて窓を開けると 冷たい風を顔に受けた。 大粒の雪が空から降ってきて リサの鼻や額にひんやりと当たる。 「これが雪なのね。 なんて素敵なの!」 リサはしばらく空を見な
その国はずっと夜だった。 人々は、夜の星とランプのあかりだけを頼りに生活した。 しかし、ランプはずっと灯っているとは限らない。 ランプが切れると、人々はカーテンを開けて空を見上げた。 外に出て、少し散歩をする者もいたし、広場で追いかけっこする子どももいた。 老人は古いバイオリンで寂しい音色を響かせて、恋人たちは手を繋ぎながらお互いの温もりを感じとった。 リアムは、町を見渡せる丘へ出ると、いっぺんに落ちてきそうな夜の星々をしばらく眺めた。 星のあかりに照らされた薄
そこは不気味な世界だった。 生温い風が吹いていて、その中には少しかび臭い匂いが含まれている。 風が通るときの音はまるで誰かの呻き声のようだ。 広い空間が広がっているその足元には、四角く整えられた黒い大理石が敷き詰められている。 崩れかけたブロンズの像を一つ、また一つと過ぎていくと、遠くからピアノの音が聞こえてきた。 ヴィーナスを彷彿とさせる女性がピアノを弾いている。 彼女は白い絹のドレスを一枚まとっているだけだった。 僕が近づいてくるのがわかったのか、隣に座ると
隣の家に住む若い夫婦がいつものように喧嘩をはじめた。 どうやら夫がミルクを買い忘れたらしい。 「だからメモを書いてと言ったじゃない。」 と妻が苛立ちをあらわにしている。 「人間忘れることだってあるじゃないか。」 と夫も負けていない。 毎週のように隣で繰り返される口論はもう恒例行事となった。 自身も、昔は妻と何度喧嘩したことか。 一週間口を利かないこともざらにあった。 怒った時のあの妻の表情。 思い出すとピエールはおかしくて笑った。 妻のエリスと出会ったの
みんみんみんみんみんみぃ〜。 みんみんみみみんみんみぃ〜。 みんみんみんみんみぃ〜。 としろうは7年越しに地上に出てきた。 やはり外の空気はたまらない。 土の中は狭苦しくて仕方がないんだ。 むぃんむぃんむぃんむむむぃんみみぃ〜ん。 としろうは、オリジナリティを求めた。 新人たちはマニュアル通りに鳴いているが、としろうは途中でこぶしを利かせる。 みんみんみみみんみみみぃぃぃ〜ん。 ちょっとやり過ぎてしまったかもしれないと反省したときは、少し姿勢を正してから大
1年5組の田中くんは、みんなに怖がられる存在だった。 家柄が家柄だけに、誰も田中くんに近づこうとはしなかった。 誰も、田中くんと目を合わせない。 田中くんは、話しかけられることもなければ、 いじめられることも当然なかった。 教室の窓際で堂々とタバコを吸っていても、 それをとがめる先生もない。 クラスメイトたちは何も気づかないふりをしながら 田中くんに目をつけられないことを常に気にした。 しかし、当の田中くんは誰かに目をつけようなどという 気持ちはさらさらなかった。
怒りと憎しみを抱えきれなくなった鬼が泣いていた。 真っ黒な闇が鬼を支配し、目にはいくつもの 赤い血管が張り巡らされていた。 低い唸り声を上げたかと思うと、 今度は地面に向かって叫び始めた。 体内にこれ以上とどまれない怒りが 炎のように赤く飛び出て行った。 叫んでも叫んでも、怒りは依然として そこにあった。 でもやがて疲れたときには 言いようのない悲しみが鬼を深く苦しめたのだ。 堪えられず涙が溢れ、鬼の顔がぐしゃぐしゃになった。 大きな手で顔を覆い、悲しくて 地面
その人は、いつも片手をポケットに入れていた。 姿勢はいいように見えたけど、 視線はいつも下のほうを向いていた。 その人がその道を通ったのは、風が涼しくなる 夕方の時間だ。 ピアノの練習をしていると、私の お気に入りのその小窓からその人のことが見えた。 その人には聴こえないかもしれない。 でも私はその時刻になると、ピアノをいつもより 丁寧に弾いた。 気づいてくれるかもしれないんだから。 嫌いだった練習曲も、そのおかげで 上手に弾けるようになった。 「いつも鍵盤を
天使は、木枯しの森で初めて悪魔を見ました。 枯れ葉が舞う その森には小さな噴水があり、 悪魔はその水を飲んでいたのです。 それぞれの務めは大きく異なりますから、 天使と悪魔が接触することはほとんどありません。 接触が禁じられていたわけではないものの、 住む世界が違う天使と悪魔はお互いの存在を 認め尊重し合いつつも、 交わる必要がなかったのです。 初めて見る悪魔の羽は優雅に大きく、 静かにも圧倒的な存在感を放っていました。 これまで悪魔の存在にあまり意識を向けることが
その子は魚屋さんへ行きました。 いろいろな魚が並んでいます。 金の魚、銀の魚、ピンクの魚、青い魚。 彼女はこう言いました。 「金の魚をください」 金の魚が紙に包まれる様子を 彼女はじっと見ています。 綺麗に紙に包まれるのです。 その紙の手触りを感じました。 そして、紙が綺麗な折り目をつけていくのを うっとりしながら眺めていたのです。 その晩、彼女は金の魚を食べました。 細い指で丁寧に、金の魚を食べました。 翌週もまた魚屋さんへ行くと、 いろいろな魚が並ん
葉っぱが、また一枚地面に落ちました。 夕方の光がきれいなときです。 コツンという小さな音を立てて、 その葉っぱは生涯を終えました。 葉っぱが好きだったのは、人間の足音です。 コツコツコツという足音を、葉っぱは この世に誕生したときから聞いていました。 足早に過ぎ去る音もあれば、 ゆっくりと過ぎていく足音もありました。 じっくり耳を済ませていると、 その人となりというものが見えてきます。 怒りっぽい人、寂しそうな人。 楽しそうな人、悲しい人。 葉っぱにはすぐに
もう人間が住まなくなったその星に、 一人の天使が降り立ちました。 緑で生い茂った森に入ると、 そこには小さな池があります。 人間たちが愛の言葉でささやき合い、 一生を共にすることを誓った場所です。 天使は池のそばに腰かけると、 人間たちの言葉を真似して言いました。 「好きだよ。」 「愛しているよ。」 「僕と結婚してください。」と。 真似して言っては頬が赤くなりましたが、 天使は続けてこう言いました。 「はい、お願いします。」と。 池の水は冷たくて、白い天使の
空に向けて思いっきり手を伸ばしてみた。 そこには太陽があって 指の間から光が差してくる。 しばらくそこに寝そべって 両手を上に向けていた。 白いシャツを着たイーサンも 私と同じ動きをしている。 空に向けて両手を上げて、 太陽の光を手のひらで受けていた。 ときどき指の間から太陽の光が差して、 彼は眩しそうに目にしわを寄せた。 洗濯した後のシャツの匂いなのか、 それとも彼の匂いなのか。 私はその匂いに夢中になった。 太陽の光は相変わらず注いでいて、 甘酸っぱい匂い