○SNSに侵食されているという危機感について。
学生の頃は仲良くしていたのに、大人になってから疎遠になっていく人ってたくさんいる。
Jam著『多分そいつ、今ごろパフェとか食ってるよ。』を読んでいたら、「SNSのモヤモヤ」の中に「人といる時もSNSが気になる」という項目を目にした。
分かるボタンが押せるなら100回押しても足りないくらいの共感と、「そういえばあの時私寂しかったな」という記憶が蘇ってきた。
高校生の遊び場、といえばカラオケだった。
誰と遊ぶにせよ、当時のわたし達にとって近場で安価で気軽に行ける場所だった。
その中でも特に気になる友達がいた。
その子は、自分が歌っている時以外ずーっと携帯を弄っていた。
私は歌が上手ではないから(むしろ下手の分類)、当時は仕方のないことだと思っていた。
けれどその子に関しては、カラオケだけではなかった。どこかカフェに行っても光り続ける通知。
わたしと話していても、途中で返信する。
彼女のことは、純粋に友達として好きだった。
けれどそういう違和感は常に感じていた。
なんでわたしと遊んでいるのに、他の子とやりとりしているんだろう。
わたしと今、遊ぶ意味なくない?
彼女はよく遊ぼう、と誘ってきた。
誘われることも嬉しかった。
今、彼女と交流はない。
高校生までは狭い箱の中で上手に生きていかねばならなかったけれど、大学生になると一気にその蓋は開かれた。
大人になった今、自分の心地よい人、尊敬する人としか会わなくなった。
大人になる利点は、まさにそこにある。
自分で自由にいたい相手を選ぶことができる。
極論かもしれないけれど、仕事場での人間関係を改善したいなら転職してしまえばいい。
だって愛社精神がないのであれば、わざわざその会社に固執する必要がないから。
SNSを上手に使いこなしている人はどれだけいるのだろうか。
機能をとか、バズりをではなく、精神的に、現実との兼ね合い的に。
そういう距離の取り方、扱い方は誰かに教えてもらうものではないし、そもそも教えられる人の方が少ない。
だからこそ、ひとりひとりがどうするのかを考える必要がある。それなのに、リアルが仮想に侵食されている危機感を持つ人が少ないから(特に学生)考える機会に恵まれない。
自分も学生の頃は違和感を抱きつつも、「仕方のないこと」だと思うようにしていた。
俯瞰して見ると全く意味が分からないけれど。
SNSで苦しむ、なんて時間がもったいない。
それなら今手にしている家族や友達や恋人の目を見て言葉を交えるべきだ。
だってSNS上とリアルですら、別人に感じる瞬間があるのだから。
それはきっと、自分にも言えること。
p.s.写真は高校の体育祭で撮ったもの。この文章を書いた後だと、どことなく狂気じみているように感じるのは私だけだろうか。
学生時代に発した「好き」の真価が問われるのは、大人になってから。