捕らえられなかったジョーカー【『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』映画感想文】
まずそもそも前作のジョーカーがあれだけの傑作となった理由は何か。それはひとえに編集にある。
現実か妄想か、曖昧な物語は脚本時に明確に想定されていただろうか?果たして疑問である。脚本を作るという事は書き記してしまう以上、そこに具体的な設定を用意する必要があり、具体性なしには脚本というものは書けないものである。ゆえに公開時、社会現象になるほど話題となった、主人公に起こった事は現実なのか妄想なのかという議論には脚本設定として確実に答えがある。
しかしその確固たる物語を編集が変えてしまった。編集とは魔法である。編集作業中に確固たる物語が曖昧なものに変わるのを発見した時、作り手は驚きと共に興奮を覚えたはずだ。ちなみにかつて世の中に衝撃を与えた『ダークナイト』もまた編集の魔法がかけられた映画である。ジョーカーというキャラクターはたびたび編集という映画のマジックによって力を得てきた存在なのである。
では翻って今作はどうかというと残念ながら編集のマジックは起こらなかった。作り手が用意したジョーカーというものに対する答えに向かって映画はただ進み終わってしまったのである。それは今作が前作に対する解決編だからであろう。謎を振り撒いたままでよかった前作と違い、今作は謎に答えを出さなくてはいけない。そして答えを出すからには脚本時から作り手の頭の中で答えを固めて、それを映画にしていく。そういう作業が求められたはずだ。撮ってから編集で物語を思いもよらぬ形に変質させていくという手段は取れなかった。それゆえにジョーカーとは何だったのかに対する答えのいくつかの内で、割と凡庸な答えに落ち着いてしまった。結局前作で生み出したジョーカーという現象を、自分たちでうまく捉えられなかったのだ。
その結果生まれた本作では、捕らえられたジョーカーが刑務所と裁判所をひたすら行き来するという皮肉な作りになっている。作り手の悪戦苦闘の跡は見える。現実とミュージカルの切り替わりを曖昧にした歌唱シーンや、ひたすらタバコで作られる煙幕、テレビを用いた虚像と実像の淡いの表現など、答えが見えてしまっている物語をなるべく曖昧な語り口にしようと試みているが、やはり前作ほどのダイナミズムは得られなかった。
しかしジョーカーに対して決着をつけたはずなのに、子供を示唆する展開や、ラストシーンの口を切ってジョーカー化する囚人など、ジョーカーの受け継がせを匂わす様は、どこかまだ未練を残した態度で潔くない。