祭囃子とモラトリアム
私の住むまちでは今日も祭囃子が鳴り響いている。
祭囃子をよそに今日はアルバイト。
三度の飯よりお祭り好きの私には、お祭りをほっぽりだして働くことははじめての経験で、仕事が始まってから (どうしてアルバイト入れちゃったんだろう、、、)と後悔の念が心を支配した。
アルバイト先ではお祭りへ向かう人々の陽気な笑い声が聞こえる。笑い声の先にある、お祭りの匂いとか人混みの暑さとかいちごシロップのかき氷とかに思いを馳せる。
そういえば、小さい頃はかき氷が苦手だったなあ。氷が溶けて水になった液体に甘ったるいシロップがどうも小さい頃の私は苦手だった。
今年は何故か、お祭りという響きに高揚感を感じなかった。だからアルバイトなんてものを入れてしまった。そんな自分が信じられなかった。なんだか、大切な何がを失ってしまったような気がする。子供の頃の無垢な瞳とか、トキメキを感じる心とか、そういうものを。このままつまらない大人になっていくのだろうか。何にも楽しさを感じられずに残りの人生を生きていくのだろうか。
大人になるにつれて、はじめてがなくなっていく。新しいものが、どんどんなくなっていく。新鮮な気持ちを味わうことは少なくなっていて、新しいものに挑戦するときには責任がのしかかる。純粋に、新しいものへのワクワクを楽しめるのは、結局子供の時だけなのかもしれない。
お祭りも終わり、人がまばらになった夜道を歩く。大学の図書館ポストに本を返却しに行く。3冊借りたのに、結局1冊は読み切れないまま期限がきてしまった。なんだか、今はこの本を読む気分じゃないなって感じてしまう時がある。この1冊はそんな理由から本を開かずにいた。
夜の大学は、なんだか好きだ。
静まった構内で、風の音と虫の音が聴こえて夜風が頬をなぞる。
ふと顔を上げると、校舎と木に囲まれて空がキャンパスのようにこちらを見ていた。夏の大三角形が今年も輝きを増していて、自分がなんだかちっぽけに思えた。
未来への目標も、今をがむしゃらに生きる理由も、過去の誇りも、私には何もないように感じた。
夜の大学が好きだ。だけど、それ以上に悲しかった。
もう子供とは言えないけれど、大人になれた気もしなかった。大人になりたいとも思えなかった。
生きることに息詰まったときにこそ、文章は必要だ。
生きることがわからなくなったときにこそ、考えが頭の中を巡り廻る。
生きることに理由を見いだせないときにこそ、何かを書きたいと思う。
文章を紡ぐのは、弱い自分を、ちゃんと見つめてあげるため。ちゃんと愛してあげるため。
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