古い写真を訪ね歩く 3 〜井出昇さん(100)を訪問〜
佐久穂町の役場から川を挟んで東側にある四ツ谷の交差点から北へ入って、細い道路沿いにさりげなく見える2枚の看板には、それぞれ『佛像彫刻展示館』『御自由に御鑑賞下さい 佛師 井出昇山』と書かれている。
その庭先を通り奥の建物に入ると、真新しく素敵な展示館があった。
迎えてくれたのは、今年100歳になる 井出昇さん。入ってすぐ左手にある工房で作業をしている途中だった。奥には照明が付いていなかったが、何体もの佛像が、ガラスケースの中に並んでいる様子がわかった。
観たい気持ちを抑え、通された工房へと入る。
「これが連絡した写真です。」と早速大きな写真を2枚見せてくれた。
どちらも古い集合写真で、その大きさにそれぞれ記念に撮られた貴重な写真であることがわかった。
1枚目は、現在の佐久穂町『こどもセンターさくほっこ』(児童館及び学童、図書スペースなどを兼ね備えた子育て複合施設)が、昭和4〜7年当時、海瀬村の海瀬小学校だった時に敷地内で撮った写真だという。
「この建物はなんですか?」と尋ねると、「これは、奉安殿(ほうあんでん)っていうんだが、知らないかな。」と昇さん。奉安殿は、昨年度、集落で話を聴いて回る中で幾度も耳にした単語だったのでよく覚えている。
「え!こんなに大きな建物だったんですね。」と、話だけでは想像もしていなかった大きなお社のような建物に驚いた。その建設に、昇さんの父が大工として携わった記念写真だという。
もう一枚の写真も集合写真。「この写真は、私の兄が青年部の頃にスポーツ大会に優勝して、地蔵堂の前で撮った記念写真だ。」昇さんの兄の年齢から推測して、昭和4年頃に撮影されたものらしい。
「この地蔵堂は、戦後数年経ってから取り壊されてしまって、中にあったお地蔵さん達は、少林山桂霄寺へ保管してもらっている。」地蔵堂は、四ツ谷にある海瀬館の駐車場にあったという。
この辺りは下海瀬村ではあったが、その中でも“四ツ屋(現在の四ツ谷)”では30軒ほどの家で自治運営されていたという。「昔は信仰心が強かったから、お地蔵さんを中心にして規約があったので、役を担当した人が信徒におふれを出したりして、行政区として機能していたんだ。」と昇さんはいう。
この地蔵堂の広場は、毎年お経をあげて縁日を行うなど近年まで四ツ谷の中心的な場所だったそうで、今でも名残の石碑が立っている。
元海瀬村の人は、JR小海線 海瀬駅のすぐ横にある秋葉山と縁が深い。秋葉山は、当時の村役場や学校も見下ろすことができ、地域の中心だったという。そこに今もある石碑には、この当時集った四ツ屋集落の家長の名前が刻まれている。
古い写真から話は逸れるが、昇さんの先祖は古くからの佛師で飯田のお殿様のお抱え佛師でもあったという。
昇さんの祖父の代は宮大工をしており、この近辺の古い建物も手がけ、佐久市田口にある由緒ある『新海三神社』拝殿の修繕も請け負ったことがあるそうだ。
また、父と叔父共に腕利きの大工で、橋の架け替えやこの辺りの公的な建物などの仕事も任されたという。写真の奉安殿もその一つだったのだろう。
昇さんは、若い時から佛師を夢見ていた、戦後のまだ豊かではない時代にはその夢は叶えることができず、他の仕事をしながらも彫刻の練習を絶やさなかった。そして機会を待って、50代をすぎてから佛師となる夢を果たしたそうだ。(その経歴は新聞にも掲載された。)
今年、コロナ禍を経て佐久市の中山道岩村田宿エリアで4年ぶりに開催されたお祭り、『岩村田祇園祭』。その屋台のてっぺんには、昇さんの先祖である『井出運縁(うんえん)氏』が彫ったという獅子頭があり、今も使われているという。
その血筋は、昇さんに引き継がれ100歳の現在、残りの余生をかけて作りかけていた佛像を彫り切るために、可能な日には1〜2時間は工房に入り佛像と向き合っていると話してくれた。
その佛師としての誇りと長年の想いを聴き、背筋を正すと共に鳥肌が立った。
写真の話を伺った後に、ギャラリーを拝観した。
70代で彫ったという大作の説明を受け、その作品の繊細さと、何よりも美しさに感動を覚えた。
最後には、昇さんが気に入っている作品の前で記念撮影をさせていただき、いくつもの佛像を彫ってきたその手と握手をして工房を後にした。
〜昇さんはギャラリーにある佛像を、これからもたくさんの人に観てもらいたいとおっしゃっていました。〜
文・鈴木
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