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古い写真を訪ね歩く 10 〜篠原かつみさん(93)を訪問①〜

今回の写真は、佐久市岩水在住の八巻さんからのご提供。八巻さんのご先祖は、旧八千穂村のご出身。写真のエピソードについてはご存知ないと言うことで、東町商店街で『甲乃池』を営む、篠原かつみさん(93)を八巻さんと共に訪問した。

かつみさんは、昭和30年に中込(佐久市)から甲乃池へ嫁いだ。甲乃池は、江戸時代頃から続く料理屋だそうで、町内でも有名なお店だ。現在は、かつみさん1人で店を切り盛りしている。
「私が来た頃は、毎日お客さんが来ていたよ。16時から夜中12時や2時位までやる時もあった。」
東町商店街の通りは、高野町の人には「新道」と呼ばれている。逆に「旧道」と呼ばれているのは、江戸時代に佐久武州街道の宿場町だった、翠町、柳町の通り。

新道が盛えたきっかけは、大正4年の佐久鉄道(現:JR小海線)の羽黒下駅開通。また、明治20年に大日向地区で創業した与志本合資会社(現:株式会社吉本)が、翌年の大正5年に羽黒下駅前に拠点を移した事だと、地元の方は口を揃えて話す。
大正から昭和初期頃まで、主に土木や林業関係者が住み込みで仕事に来ていたり、報酬を集金したお金を、東町にある料亭などの飲食店に落としていったそうだ。
甲乃池はそういったお客さんによって、かつみさんが嫁いでくる前から賑やかだった。


栄キネマのもぎりをする八巻まちさん

写真に写る女性は八巻さんの祖母、八巻まちさん。「栄キネマのもぎりをやっていた時の写真らしいんだよ。俺が生まれた時には、もうキネマはなかった。」と、八巻さん。
東町交差点の角にある、現在は東町商店街共用駐車場となっている場所に、栄キネマがあった。(町の人はキネマと呼ぶ。)

「与志本の人が一杯呑んで、映画の切符を置いていっただよ。映画にいくと、いつもまっちゃん(まちさん)が受付やってた。お昼ご飯食べたあとに、おばあちゃん(義母)達が映画にいく時は、私はお茶持っていくだ。2階の角んところにお茶持っていってさ、お風呂当番だけが店(甲乃池)に残ってて、時間になってお客がくると、呼ばれて途中でも店に帰った。」

キネマの映画は午後に始まる。昔はフィルムをあちこちの映画館で順番に使っていて、前の場所で観終わると自転車で次の映画館に運んで上映していたそうだ。開館の時間になると、賑やかな音楽が流れるのが店まで聴こえてきたという。
甲乃池では、料理とお酒、そして芸者さんが入っていた。「16時の開店前になると、お風呂入ってお化粧して、お客さんを待つ準備が始まる。それでお風呂当番がいた。」と、かつみさんが説明する。

キネマは2階建てで、はっきりは覚えていないが、200人位は観客が入ったのではないかとのこと。「映画行って、帰りにうちへ寄って一杯呑んで、バスの時間になると帰っていくだ。」バスはどこにいくんですか。と尋ねると、「川上村までバスが行ってた。」と、かつみさん。「こっちは臼田位から、ずっと川上までバス通ってたよ。昔はこの通りがメインだったから。」と八巻さん。

まちさんはどんな人だったのかという質問には、「なんか聞いた話じゃ、子どもたちがキネマの前をうろつくと、『ほら、入っちまえ』ってタダで入れてたって。俺が覚えているのは口の悪い婆さんだったけどよ。」と、八巻さんは懐かしそうに語る。
まちさんの写真の他に、当時の映画のパンフレットや、都八重子一座のプロマイドの写真もあった。
「昔、灰田勝彦が来た時に、2階から名前を叫んだら、『誰だ。甲乃池の嫁さんかぁ。』って言われたよ。」と、かつみさんが笑いながら当時のパンフレットの写真を眺めた。


当時のパンフレットとプロマイド(八巻さん所蔵)

昨年度、集落の話の聴き手事業で80歳以上の方を訪問した際も、栄キネマの話が度々出てきた。「当時は今みたいな娯楽がなかったからね。」と、どの方もそう話していた事を忘れない。

テレビが普及するまでは、この辺りの最大の娯楽だった。と言っても過言ではない、栄キネマの存在。当時を知るどの人の心にも残っている場所ではあるが、館内の写真はなかなか残っておらず、八巻さんの写真に出会えた事は、とても幸運だと感じる事ができた時間だった。

トップの写真は、橋(栄橋)の向こうに見える、2階建ての『栄キネマ』にご注目ください。(小宮山健さん提供)

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次回は、下畑の小宮山健さんの祖父小宮山直樹さんが撮った写真の中から、桜町の栄座の写真と、東町の芸者さんの写真について、かつみさんに伺った内容をご紹介します。

文:鈴木


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