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小説「星にカメラと細めのロープ」(短編集「さよならをポケットに」第2編)

午前2時の北海道は静寂に満たされている。冷蔵庫に眠る瓶牛乳みたいに。

 広さ6畳のアパートの2階、男は真っ暗な部屋を眺めている。はじめはただ黒で塗りつぶされた部屋も10分、10分経つと次第に瞳孔は開いて、確保できる光の量は増え、部屋の輪郭をつかみ取る。男はただぼんやりと、ただぼんやりとした本棚の前に座る。
 
 大学1年に買った有機化学の教科書、かっこいいからという理由で手を出したけど結局50ページも読まなかった量子化学の教科書。去年買った粉体工学の本もある。内容には多少興味を持てたけど講義がつまらなかった。あとこれは、楽曲集。サークルで、使っていた。
 
 あてどない本の散歩。目的などない散歩。しかし、散歩には決まってささやかな気づきがある。男にとってのそれはちょうど楽曲集の1つ上、左の端にあった。「宙の名前」春夏秋冬朝昼晩。あらゆる星が閉じ込められている。どろり、と体内で何かが流れ始めた。

 男は本を片手に3歩先にあるであろう机に向かう。イスを確認、あった。本を机に置く。手探りでイスに座りデスクライトを灯す。液晶画面みたいな手触りのハードカバーのその本はハードカバーで装丁されライトの光を鈍く反射していた。手に取る。文字なんて読まない。ページをめくる、まためくる、パラパラと、それだけ。しかし、そのスピードは次第に緩やかになってゆく。いつの間にか鼓動は早くなっていた。

今は何時だろう。
 
 暗闇の中に時間はない。けれど夜なのは間違いない。男はスマートフォンを手に取る。一ヶ月前に買った白のスマートフォンは黒の空間とよく隔離されていた。透明なケースには2人で撮った写真が挟まれている。男は一瞬乱れた呼吸を一息整えてカメラを起動した。

 一回も使ったことはないけれど最新のスマホを星空を撮ることもできるらしい。厚ぼったい紺色のカーテンを開く。摂氏4度の夜空。冷気は窓ガラスを伝いゆったりと男の腕を抜ける。男は冷気を押しのけちょうど夜空と同じ温度のつがいを外し、窓を開けた。

 星は見えない、月も出ていない。しかし雲も出ていない。空にあるのは100パーセントの夜。地球に生えるちっぽけな街灯に照らされた夜は溶けたチョコレートみたいに妙な光沢を有している。星が出ていないことに一瞬男はため息を隠すことができなかったが、すぐに男の日常には星空なんて存在しないことを思い出した。

絶望すると、よく空を眺めていた。

 あのときも、このときも。そこにはいつだって星はない。散乱した街灯の灯りは空からの伝達をゆったりと妨害していたのだ。男の唇は軽くすぼみ、ため息を長い呼吸に変換する。

始めよう。

 まずは適当な本を積み上げ、カメラの位置を調節する。机に置いただけではカメラの視野に街灯が入ってしまう。そうだな、あと15センチ。ページの少ない本だとかなりの冊数が必要だ。当然不安定になる。安定性を確保するためには分厚くてハードカバーの本を数冊積むのがよい。

 男は読んでいる途中だった源氏物語に目をつけた。これだ。上中下巻合計13センチ。3冊の上に宙の名前を載せる。15センチ。土台は安定している。安定性を考慮しスマホスタンドには穴開けパンチを採用した。

 準備完了。スマホを起動しカメラを起動。モード選択欄を左にスワイプし夜景モードを選択。シャッターを押したときにカメラがぶれるからタイマーを10秒に設定。夜に写真を撮るときはこうするといいって教えてくれたよね。

 あとはシャッターを押すだけ。また鼓動が早くなる。粘度の高そうな血液が高速で循環している音がする。だからって別に手が震えるわけでもない。

ピコロン、ピッ、ピッ

 馬鹿みたいなな効果音が鳴る。さあ、10秒しかない。スマホを素早く穴開けパンチに寄りかからせ角度を調節する。残り3秒、完了。

ピッ、ピッ、カッシュン

 シャッター音まで馬鹿みたい。笑える。露光時間は4分3秒。空に散らばったかすかな光を回収するのに必要な時間。だからって別に何か必要な作業があるわけじゃない。じっと待つだけ。

 部屋の空気は完全に循環し、すべて空の空気と同化していた。男は穴開けパンチの隙間から画面を眺めている。澄み切った部屋、スマホとカバーに挟まれた写真、彼女と桜の木の下で撮った写真は次第に冷えていく。

 2分経過。隙間から見える画面にはぽつりぽつりと星が写り始めた。男はどうしようもない感情に包まれる。不意に涙が流れた。2、3滴、にじみ出るように。男はじっとスマホの画面を眺め続け皮膚に伝う涙の感覚をじっと受け取り続けた。

 3分30秒経過。画面一面には神さまが袋いっぱいの幸福をばらまいたような満点の星空が映し出されている。男は目線を空に移した。のっぺりとした夜空。なんにもない澄み切った夜。

この夜空の下、僕の彼女は他の男と寝ている。同じサークルの後輩。

キランキランキラン

 撮影終了。ほんと馬鹿みたい。男は直径8ミリのロープをカバンに詰め部屋を後にした。星空ほどの温度を保ったスマートフォンは一人、夜空を写し続けている。

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