人生で最も喜びを感じた瞬間|児童養護施設出身の大学生が思うこと
これまでの人生で、最も喜びを感じた瞬間はどんな時ですか?
一番幸せを感じた瞬間はいつですか?
私にとって一番の喜びは、児童養護施設の小学生や中学生が「さくちーはすごいんだよ!」「さくちみたいになりたい」と言ってくれることでした。(当時、さくちーとか、さくちと呼ばれていました)
きっと、中学時代・高校時代に夢に向かってたくさん勉強をしている私の姿を見てくれていたのだと思います。
私にとって、涙が出るほどほど嬉しいことでした。
でも、何がそんなに嬉しかったのだろう。
褒められたことだろうか?
みんなのお手本になれたことだろうか?
私はある人からこんな考え方を教わりました。
自分が手に入れられなかったもの・ほしかったものを他者に与えることができたとき、人は喜びを感じる。
その通りだなと思いました。
私は小さい頃に親を亡くしたため、人生の目標となる大人、手本としたいロールモデルのような存在が身近にいませんでした。それは、母を亡くして以来ずっと抱えていたコンプレックスだったんです。
目指すべき大人がいないということは、希望がないのと同じことでした。そのため、生きることに対し非常に悲観的な幼少期を送りました。
真っ暗闇をひとりで生きていく人生なら、死んでしまった方がマシだと思うこともありました。
だから、施設の子たちにとってロールモデルになれたこと、そして少しでも希望を与えられたことが、とても嬉しかったんだと思います。
幼い頃の経験によってつくられた苦しみが深ければ深いほど、与えることができたときの喜びは大きくなります。他者を苦しみから解放するように見えて、実は自分を解放しているのです。
だから、感じる喜びが大きいなら、そこに深い苦しみを抱えている可能性かもしれません。
今のわたしはどうかというと、そのとき感じた喜びは消えていないにしても、その喜びの大きさは明らかに以前より小さくなっていると感じます。
少しなりとも小さい頃の苦しみから解放されたからでしょうか。
手本となる存在が必要ではなくなったのです。そんな存在がいなくても自分は生きられるとわかったから。
希望を持てるようになったのです。希望はもたらされるものではなく、自分の内側にあるのだとわかったから。
あらためて知りました。
喜びの深さと苦しみの深さは同じであるということ。苦しさが消えると喜びも薄れるということ。
でもそれは悲しいことじゃない。
きっともっとすばらしいことに目を向けて、今まででは気づけなかった喜びと出会える入口に立てたのだから。
さくら