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「批判やめろ!」ではない、少年院に学ぶ先進的な対策
SNSをトリガーとした死者が出た。
なぜ俺という赤の他人が怒っているのかと考えた。
自分と重ね合わせたからだ。
何を?心を。
死ぬほどつらかったんだね。
自分も死にたい気持ちに何度も襲われてきた人間として、共感せずにはいられない。
死ぬためには、強烈な絶望と勢いが必要だ。ちょっとでも冷静な頭があれば死ぬまでのどこかの過程で立ち止まることができる。
そういう頭を吹っ飛ばすほどの絶望。
どれほど泣いただろう、どれほど苦しかっただろう、どれほど悔しかっただろう。
自分を破壊してしまうほどの痛み、心に収まりきらず精神の枠をはみ出して、自分の生をも断ち切ってしまうような絶望。
言っても変わらない加害者
SNSで人を傷つけるな、匿名だからと言って何を言ってもいいわけではない。そんなこともう何年も言われてきたのに、結局かわっていない。そりゃそうだ、みんな気持ちが良くて仕方がないから。仮面をかぶって遠くから石を投げつけて人をなぶり殺しにする。仮面の奥にうすら寒い微笑をたたえながら。
村八分。陰口悪口後ろ指、人間昔から人のことをこき下ろすのは大好きだ。特に「みんなで一緒に」「陰でこそこそ」するのが大好きである。だからいじめはなくならないし、週刊誌のゴシップもYoutubeの誹謗中傷コメントもなくなることはない。どれだけ善良な市民も、匿名の仮面と世間の免罪符を与えられれば、突如おぞましい悪鬼へと変貌する。
対策をいくつか考えた。
加害者に向けたものと、被害者に向けたものがある。
この記事では、加害者に向けたものを二つばかり。
誹謗中傷を控えることを促す
一つ目は言い尽くされている、「被害者の気持ちを考えろ」だ。
SNSによる誹謗中傷をやめるように促すのは今後も続けるべきだろう。インターネットを挟んでいても、そのコメントは届くときは届くし、人を傷つける刃物になることを知らしめる。あなたのコメントが、誰かを殺すのだと。相手は無機質な情報の塊ではなく、血の通った生身の人間なのだと。
どんな価値観も何度も聞かせれば少しずつ個人の価値観を侵食していくものだ。ヒットラーが放送局を掌握して国民をたきつけたように。あるいは港区や武蔵小杉の地価が広告産業によって高騰したように。
自身の内面を見ることを促す
もう一つは、被害者の内面ではなく、加害者の内面にフォーカスする方法だ。
少年院で行われるプログラムに「ロール・レター」というものがある。これは、ロール=役割になりきって手紙を書くものだ。
少年院ではこれで「加害者」の役になりきって書く。
加害者が加害者になりきる?誤植ではない。
加害者になりきり、すなわち自分の加害時を思い出し、その内面を手紙として吐露することで自身を客観視することができる。
これによって自分が心に抱えているものや犯行に至った動機が整理され、再犯防止のために何をすればいいのかが明確になる。
動機が家族との不和だったら関係性を見直す訓練が必要だし、クラスメートとのいさかいであれば、他者との距離の取り方や心の守り方を学ぶ必要がある。
そして何より、手紙にし、自身の胸の内にある闇をなぞり形にすることで、ある種のヒーリング効果があるのだ。掬い取られた気持ちは慰撫され、暴走をやめる。
SNSでの誹謗中傷コメントの書き手にもこうして自己を見直すことを促すといい。
自分が何を感じていて、日々どんな不満を持っているのか。なぜ他者を攻撃してしまうのか。目を他者に向けていても苦しいのだ。他人を自分の人生の憂さ晴らしに使っても自身の問題は解決しないのだ。
そういう加害者のダサさをもっと生々しく伝えられれば、他人のあらさがしの前に自分自身と向き合ってくれるのではないか。
被害者の気持ちを察しろ、ではなく、自分の気持ちと向き合え、そう伝えるのもありなのではないだろうか。