【小説】弱い男#8 最終話
前回
強い男
もうひとつの事件。それは、弱い男のその有様をジッと見つめる眼、すなわち彼の母の眼があったことで、彼の念仏を聴き、彼の反復動作と、苦痛から歓喜へそしてついには恍惚へと変容した表情をその眼は見ていたのである。
母は羨ましかった。
今、一心不乱に踊り狂う息子が妬ましい。
ええい、邪魔をしてやれと彼に近づいたところが、覚醒した息子の勢いは凄まじく、跳ね飛ばされてあわれ床に転がってしまった。
そうなるともう、いてもたってもいられないのが母である。
すぐさまその場で息子の動作を真似はじめると、生来の身体能力の高さから、すぐに息子と同等のスピードで動けるようになった。
しかし、母の心は覚醒してこない。
息子同様汗だくになっているので、スポーツをしているような爽快感はあるのだけれど、息子の表情に現れているような恍惚が芽生えてこない。
おかしい。
母はムキになってどんどん動作のスピードを上げていく。
もはや眼にも止まらぬ速度で首を曲げるところから体を丸めるところまでを反復している。
やがて完全に息子のスピードを超えた、しかし。
やはり母は老いていて、ついに限界を超えた。
まず、曲げた瞬間に首が折れた。
しかし肉体は惰性で動き、逆側をカバーしようとした手の力がすでに制御できなくなっていたために、自らの腕力で首をもぎ取ってしまった。
更に肉体は動き、脇を絞めた途端、肘が脇腹を突き破り胴体にめり込んで、ひょいと挙げた片足の膝が胸に激突して心臓を蹴り抜いてしまった。
そうして母の肉体は首ナシの操り人形が糸を切られたように、その場に血溜まりを拵えながら崩れ落ちた。無惨である。無様である。
弱い男は母が屍に成り果てたことにさえ気付かず、踊り続けた。
母の血溜まりに足を取られながらも踊り続けた。
生臭い玄関ホールに朝日が射し込んできた頃、ようやく弱い男の脳が悲鳴をあげ、肉体は動きを止めた。
まったく眠っていないにも関わらず、熟睡し目覚めたばかりのような充足感があった。
そこにきて初めて、弱い男は母の屍に気付く。
「暗黒舞踏」
母の声が心に蘇る。
「みっともないよ、母さん」
弱い男はそう呟いて玄関のドアを開けた。
「いってきます。母さん」
その声は自信に満ちていた。
なんて素晴らしい朝の空気。
(了)