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「普通」を追い求めた私の寂しさについて

親友が妊娠した。

彼女とは、高校に入学したときの席が前後だった。最初はちょっと不愛想でとっつきにくい感じかしらと思ったけれど、笑顔が可愛くて芯がしっかりあって言葉のひとつひとつが明朗快活としていた。今もそう。

高校時代も、大学時代も、就職してからもつかずはなれずかかわってきた。

彼女は昨年結婚して、すぐ妊娠したみたい。来月安定期に入ると言っていた。出産は8月らしい。

彼女は自分の好きな人と家庭を作り、これからさらに家族がまた増えて、好きな人と好きなものに囲まれた空間に包まれて、きっとそれが彼女の幸せなんだろう。



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友人の、結婚や妊娠の話を聞くと、とたんに寂しくなってしまうのは私のなにがそうさせているのだろうか。

結婚や妊娠はなんだか、やはり、私たちは当然通らなければならない道のように思える。いや、というか、まずそんなことを考えないほど、当たり前に選択するようなものに思える。

「普通」なんてものはこの世に存在しないとわかってはいるけれども、やっぱり私は昔から「普通」を追い求めてきた。もちろん特別な自分にもなりたかったけど、とことん常軌を逸した特別よりかは、「普通」な人たちの中の「特別」になりたかったかな。



たぶん、ずっと仲間外れにされているような感覚があったから。



当たり前のように、みんながそうしているように、自分で無理して頑張らなくても、誰かと一緒に行動したり、意見を言い合ったり、出かけたりしたかった。そういうことが当然である自分でいたかった。

わかりやすい例だと、小学校の時、PSPとDSのどっちかを買っていいことになって、確か本当はPSPが欲しかったはずなんだけど、DSを持っている友達のほうが多かったから、DSを選んだとか。

ポケモンのゲームをみんな持ってたから私もやってみようと思って親に買ってもらったりとか。

でも結局わたしはあんまり楽しいと思えなかった。寂しかったけれど、ひとりで外を眺めたり音楽を聴いたり絵を描いたりしていた。

TVの話もついていけなかった。ドラマとか、バラエティの話をみんな楽しそうにするのに、私は頑張って観てみてもあまり楽しいと思えなかった。

悩みを打ち明け合う友人関係を築いている人をみて憧れた。心の底から楽しそうに長い間友人と話している姿を見て憧れた。

でも、友達と遊ぶことは多かった。楽しかったけど、どっと疲れる。だから億劫だなと思うことも多かった。

私は「普通」でいられないんだ。努力してやっと「普通」になれるんだと悟った。ありのままの私はしょうもないと。社会になじめない自分なのだなと知った。

当然そのことは他人に知られてはいけなかった。知られたとたん、他人から見た私は「普通」でなくなってしまうから。一生懸命取り繕った。自分のことは共有しなかった。いろいろあって、親にもできなかった。自分で自分の孤独を深めていった。


結婚することも、子供を持つことも私にとっては「普通」のことなんだろう。私が憧れる「普通」を構成する一つの要素だから、私はできれば手に入れたいと思っているはずだ。結婚したら、子供ができたら「普通」になれる。ただ例によって、私は結婚にも子供をもつことにもいま、たいして興味がない。だから私は、早く結婚したいと思えるようになりたい。子供を持ちたいと思えるようになりたかった。

でもやっぱり興味がない。これが悲しい。私はやっぱり「普通」になれなくて、ひとりで過ごしていくほかないのかもしれない。


私はもう一人私が欲しかった。だれか私以外に私を知っている人が欲しかった。もしくは、私のことを全く知らないままで一緒にいてくれる人が欲しかった。互いを深堀りするようなことはせず、その一瞬一瞬の刹那的な会話を楽しめる人が欲しかった。そうやって寂しさを共有したかった。

こんな私でもここにいていいんだと思いたかった。

いつかこの寂しさを懐かしめるようになるのか。そうしたら私は、やっとほんとうに、深い眠りにつけるようになる気がする。









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