コミュニティが私?
最近、自分の人生をよく振り返る。そしてこれからの人生をよく考える。来年50歳なので、折り返しというか、どうやってこの人生を仕上げていくのか?を考えたりします。
そんな考えに至った原体験をお話しながら、自己とコミュニティの相関関係についてもお話しませふ。
コミュニティでフルボッコw
昔、面白い事があった。
とあるコミュニティでの出来事。
与えられた役職から発した言葉が、どうやら
辛辣な意見と受け取られ、フルボッコされるという出来事があったw
当時は、自分の人格は温和で優しい人だと思い込み、
言葉だけが先行して印象を操作されたと思いこんでいた。
そうなのです、すべて私の思い込み。
そしてコミュニティというのは面白く、共通のテーマ(理念)を
作ることができると団結力が増したりする。
ここらへんが、いじめが無くならない原因の一つのような気がします。
話がそれました。
「自分」という人格と、社会が捉えた私の「人格」は必ず一致するとは限らないと初めて感じた瞬間でした。非常に面白い。
ココらへんが人間関係に人が疲れる要因の一つかなと。
コミュニティと自己の形成(の嘘とホント)
そんな出来事とほぼ同時期に多拠点生活のADDressのホスト(家守)としての生活が始まった。
ここは、多種多様な人たちが生活を交差させる、閉鎖されたコミュニティとは真反対の世界。
非常に刺激的な生活のスタートです。
自分は非常に限定的な情報の社会で生きていたことに気が付き、
なんて狭い人間なんだと感じたものです。
ということで、ここから「私」とか「自我」とか「意識」ということに非常に興味を持ち始めたのです。
言葉の操作の一つで「私」が全然別の「私」になる。
また、どうやら属するコミュニティによって「自分」も変化するようだ。
そもそも「私」ってなんですかい?
そして、私の思っている私と、他人が思う私が一致しないとなんで腹が立つのか?
怒りの感情は、肉体的にも精神的にも自分にダメージが蓄積される。
それなのに、人間に装着されるには意味があるのか?と感じた。
怒りという感情は人間に必要なのか?
怒りを深堀してみる。
思い込みの「私」という人格や人生のストーリーに整合性が取れなくなる。
そうなると、人格(ストーリー)を守ろうと思い、他者を攻撃する。
なぜ攻撃する?守るため。言わば愛するものを守る為。=怒り と形を変えるようだ。
で、ここが難しいのですが、実は「私」が攻撃されたのではなく、
「私」を構成している情報の配列。が崩され怒る場合もある。
これすげぇ馬鹿らしいw
ということで、最近、情報のストーリーを1枚1枚剥がしていく作業を、「中年の思い込みを剥がす作業」として、割と毎日楽しんでいます。
「あ、これまた俺の勝手な思い込みとか断定だな」とか、
「あ、腹立っているけど何に触れられて反応しているんだろう?」
とか。そうやって1枚1枚剥がしていくと、どうやら本当に大事にしている事が見えてくるっぽい。これがメンタルモデル。と言われるもの。
詳細は端折りますが、幼少期の原体験がその後の行動のモチベーションになっていたりして、これが実は本当の私の願望とずれているっぽい。いつもいつも満たされない現実が待ち構え、がんばればがんばるほど、不本意な現実が訪れる。
私は私で私でない
ということで、情報の配列で構成された「私」は
どうやら「私」ではないようだ。(わけがわかんないw)
歩いてきた軌跡と、自分の頑張りはまったく相関関係がないと気が付く。
無駄に頑張らされていた人生に気がつく。
とまあ、一連の出来事から見えてきたのは。。、
固まった人格やコミュニティに執着することは、なかなか危険でである気がする。
そういう意味で、一度そのコミュニティから距離を置くのは非常に
良いと思うし、多拠点生活がもたらす効能として
違う自分を見出すのに非常に便利なサービスであると思う。
また、日々湧き上がる感情がどこから湧き上がるのか?
それを疑問視することは何がよっぽどの出来事がない限り、なかなかそうはならないわな。そういう意味で私はラッキーボーイだなぁと思う。
思い込みに気がつくのって、大きなトラブルとか
人生をがらっと変えるとか、結構大掛かりなイベントだと思う。
引っ越してコミュニティをいきなり変えるのは、結構リスキーですしね。
コミュニティが複数ある効能
そういった意味で、コミュニティに多方面で関わっていると、割と多面的な自分が見えて、コアの部分に触れそうな気がします。
実際、多拠点を持っている会員さんを知っていますが非常に楽しそう。
何が楽しそうって、その土地土地の人の笑顔を引き出すために、
色々考えているのが幸せそう。
そうやって、自己が強くなって人との繫がりも強くなっているような。
最近私もこの三浦三崎以外に拠点があると良いかもなと思う。
山梨のWSで山に感動した。
海の街の人間だから、山の拠点があるのも良いかも知れない。
好きな事や嫌いなこと。
快な事や不快な事。興味のあること、無い事。
そうやって、多面的に自分を触れさせてみて、
自分の中心がどこにあるのか?
今日も感じているようです。