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柳のような強さを持つこと

自分では気がつかないうちに、言葉足らずだったり、自身の人間性の未熟さゆえ、いろいろな人に迷惑をかけたり晴れやかな気持ちから遠ざけてしまったことがあったと思います。確実に。

人によっては私から離れたり、過去の印象やフィルターを外してもらえなかったり。過去の自分の所業とはいえ、自業自得ですし、他人の気持ちを変えられることなんて烏滸がましいことなんてできません。ただ、良化のために、誠意を持って本気で向き合い、後悔しないくらい一定期間やるべきことをやり尽くした上で、変化がなければ、もう諦観します。
出来事そのものに感情の性質はありません。私たちが勝手に「悲しい出来事」「嬉しい出来事」などの感情のラベルを貼ってるだけ。感情を事実から遠く離れたシェルターの中に保管して、感情のラベリングをせずに事実として受け入れる。
そうしたほうが私が役に立ち貢献できる方々と物事に対してもっと集中できるし、私自身も心地よいと感じられます。未来への前進姿勢を保持するために、自助努力で変えられないことをどうやって手放して受け入れていくか。ピリッと痛みはあるかもしれないけれど、そんなことも大切なように感じます。

一方で、自分では気がつかない内に、精神的に成熟した方や年長者の方には大目に見てもらったり、受け入れてもらえてたと思うんです。私が自分より若い人たちに対してそうであるように、人生経験に富み、人生哲学を編み出してきた先輩方もそうなんじゃないかなって。

お世話になった方。はたまた名も知らぬ人の寛容さに救われ、恩恵を享受しているはず。世代のサイクルを考え、後世やこれから出会う人たちに対して寛容になることが、寛容にしてもらった分を相殺すること。小さなことに煩悶していても、自分が心地よく生きることができません。そして、悲しくも、人は精神的に近しい人に対して八つ当たりをしてしまう傾向が高いということです。大切な人には、幸せになってほしいと誰しもが願うはずなのに。だから、大切な人のためにも、寛容であり、自分の機嫌を自分でとれる努力はしないといけないと考えています。

この考え方をするようになってから、鋼鉄のような砦ばかりではなく、柳のようなしなやかさが少しばかり心に宿るようになりました。心に余白ができるというか、がんじがらめの偏見や固定観念から解き放たれて、鷹揚と構えられるようになったんですよね。とはいえ、聖人君子ではないので、頭からニョキニョキと角が生えそうになることもありますが(笑)

鋼鉄と柳。場面・状況に応じて、両者の「強」を心に纏えるようになりたいです。

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