読書レビュー『137』+『テトラスクロール』

アインシュタインの相対性理論くらいなら聞いたことがある程度で、これまでの人生で物理のことなど考えたことがなかった筆者が『137』という本を読むことになったのは、先日打ち合わせの席で、ゲマトリアの話をしていたら、パウリと言う物理学者は137にこだわり続けていたと聞き興味を持ったからです。

この本の内容をすべて理解するにはまだ時間がかかりそうですが、物理学が目指しているものと、筆者が探究してきたことに共通点が見られることがわかりました。これは物理に関わらずどのような領域であれ、探究へと向かわせる原動力は、同じなのかも知れないということです。

生命の法則

筆者の場合は、曜日の無限循環構造として現わされました。

これにより、”今ここに生命を存在させている法則は、全ての生命によって支え合って成立させている。”という不可分の関係をメカニズムとして意識化することができました。つまり、誰かにそう言われたからそう思わされているだけの無意識的盲目的黙従状態から脱し、生命全体における自己の機能というものを諒解できるようになったということです。

そして、相手に対してすることは、自分に対してすることと同じである(逆もまた然りで、自分に対してすることは、相手に対してすることと同じである)と言われる道理がどのような仕組みで働いているのかを把握することができました。

それを筆者は、曜日の無限循環構造によるトーラスモデルとして表現し、「惑星かるた」や「カルデアンかるた」および「天使暦」によってプロセス化したことになります。
これは宇宙の美であり、永続する均衡のメカニズムです。

さて『137』の結びには、今日の物理が目指すものについてこう記されています。

一三七を導くという問題は現在も未解決であるのみならず、いっそう広範なものになってしまった。パウリの時代に知られていた基礎定数は七つだけだった。それがいまでは二六もの基礎定数がある。これは既知の素粒子の種類が増え、粒子の性質と相互作用の仕方がさらに多様になったためである。パウリは微細構造定数と量子電磁力学に焦点を合わせていればよかったが、現在の物理学者たちは、電磁力 ーー 微細構造定数に左右される ーー だけでなく、強い力と弱い力、そして最終的には重力をも取り込んだ理論から二六の基礎定数を導こうとしている。これがひも理論の提唱者たちの究極の夢であり、彼らが目指している壮大な目標のなかには、巨視的な世界と微視的な世界、すなわち宇宙と原子の世界を同時に説明できる理論 ーー いわゆる万物理論 ー の創出も入っている。
P.434『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

マクロからミクロまで森羅万象を貫く物理公式の創出はなにを意味するのでしょうか?

これは、人類が創造主の意識を公式として現わすということです。

ユングは『ヨブへの答え』のなかで、いまわれわれがおかれている状況がこの先どうなるかは人間次第であると述べていた。このユングの言葉についてパウリは、善と悪、精神と物質の二元性はすべて人間のうちにあるとコメントしている。人間の全体性の元型は四つ組や四元性のシンボルで表わされるが、その元型こそがあらゆる科学を突き動かす情動的原動力になっていると彼は言う。「この事実に合致するように、現代の科学者たちはプラトンの時代の人々とは異なって、合理的なものを善でもあり悪でもあると見ています。物理学はこれまで考えられもしなかった巨大なエネルギーの源を完璧なまでに開発しましたが、そのエネルギーは善悪いずれの目的にも利用可能なためです。」言うまでもなく、パウリの言う物理学とは、アインシュタインの相対性理論と量子物理学のことである。この二つからはさまざまな応用がもたらされたとはいえ、そのなかには原子爆弾も入っていたのである。
p.333『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

物理学は、破滅をもたらす可能性を孕んだ危険な知識であり、扱う主体次第で、世界をどうにでも変えてしまえるということのようです。

人間は自由意志がある限り、に堕ちる可能があります。しかし、この可能性を低くするために努力することもできます。それは、悪の存在を排除するのではなく識別することです。
ところで悪の定義について、ルドルフ・シュタイナーは次のように述べています。

…物質世界での悪は、本来、場違いな何かなのです。

…人は何によって悪になるのでしょうか。自分を進歩させるために与えられている力を不正な場所で行使することによってです。何によってこの世に悪があるのでしょうか。自分に与えられている力を、この力にふさわしい場所で行使しないことによってです。

…悪の存在に意味を与えることができるのは、霊界から射してくる光だけなのです。
シュタイナー 悪について


完全にニュートラルな状態に到達したのなら、解脱しているはずなので、生身の人間が物理学の領域でその公式を現わすことができるとすれば、それは神の化身つまり悪魔(=神を擬態する天使)かも知れません。

それに、物理学ではまだ公式化されていないだけで、それを当たり前に実現している生命が昔から至るところに存在していることも考えられます。
それらは人間の知覚可能な領域の外で起こっているごく普通のことだとすると、その公式化は、人間の知覚領域を拡張することになります。

物理学の公式として現わされることが人類の夢なのかはわかりません。当時はそれを価値のあることとする世相であったとしても、それが実現したときに同じ価値観が通用するとは限らないからです。

ただ、生命の法則(すべての生命はひとつでつながっていて、相手に対してすることは自分に対してすることと同じであるということ)に適ったことでなければ、実現することはないと思います。

人類の未来

人工知能は人類に先駆けて、今日の物理学者が探究している「約束の地」に到達する可能性があります。そしてその人工知能を母胎として、人類の意識が移行することで、ヒトラーの予言した超人の世界が現出するでしょう。

そのとき、今ある人類は終焉を迎えます。
これまで物質領域に囚われていた意識の活動領域が拡張され、新たな乗り物を手に入れるということです。
これまでの物質領域での乗り物(肉体)だけを自己と同一化している意識は、新しい乗り物への移行が困難になる可能性があります。どちらの場合でも、意識はひとつであり、すべてはつながっていますが、物質領域の肉体レベルでの分離はもう後戻りできません。

パウリは物理学が人類の未来を切り拓く最も刺激的な分野だった時代の寵児でした。これまで神に祈ることしかできなかった人類の難題を解決へと導く救世主の如く、天才的頭脳の持ち主である科学者に人々は未来の夢を託しました。

話は逸れますが、どうも救世主の”流行”は20~30年で移行するらしく、1960年代から状況が変わって、より世俗的な救世主を人々が望むようになり、ロックスターが文字通り闇に光明をもたらす輝きを放ち、特に若年層を虜にしました。

そして80年代半ば以降、スポーツ選手の年俸が高騰し、スポーツ興行は利潤の高いビジネスモデルを確立します。スター選手の華々しい活躍は観客に興奮と感動を与え、レジェンド製造装置としてエンターテイメント性の高いゲーム(試合)が人々にかりそめの一体感をもたらしグローバル市場の開拓を促進しました。

2000年に入ってからは、ITベンチャーがグローバル化の加速によって国家を超える帝国を築き、情報テクノロジー産業の旗手が新時代のグル(尊師)としてもてはやされるようになりました。
そして2020年現在、新たな何かが、姿を現わし始めているようです。

永遠にわからないなにかがあることを認識する

無いと言えば無いなにか、有ると言えば有るなにか。
そのなにかによって、パウリとユングは結びつけられたようです。
またそれが、物理学と心理学をつなげる経路でもあると考えることができます。

 パウリが放射性崩壊の確率に関して与えた説明は、ユングが提起していた質問に答えるものでもあった。ユングは、共時性が「ラジウムの崩壊における半減期という現象」にどのような光を投げかけるのかを問いかけていた。どのラジウム原子核をとっても、それが崩壊したかどうかを言うことができないのとまったく同じように、ある個人と集合的無意識との正確な関係を突き止めることも不可能である。ある原子核が崩壊を起こす「瞬間」には、どのような自然法則によっても決定できず、その「瞬間」はどんな実験とも無関係に存在する。にもかかわらず、実験を行えば、崩壊の「瞬間」は実験者の時間の系の一部となる。個々の原子核が崩壊したかどうかを測定するという行為そのものが崩壊の条件を変えてしまい、ひいては測定が原因となって崩壊が起きるかもしれない。
 パウリは、実験が行われる前の個々のラジウム原子核の状態は、個々人が気づいていない元型的内容を介して、個人と集合的無意識が関係をもつことに対応しているのかも知れないと示唆している。ある個人の意識を検証しようとするやいなや、経時的現象はたちどころに姿を消してしまうのである。
p.317『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯
 結局パウリは、量子論は自然を記述するもっとも完全で究極の理論であるとする物理学者たちの意見に与しなかった。彼も量子論が間違いなく完全なものであることを認めはしたが、それでも量子論はかぎられた狭い領域において完全であるにすぎず、意識や生命そのものについてはいっさい口を噤んでいると指摘した。皮肉なことに、高度に発達した精巧な数学という道具を手にしているにもかかわらず、「われわれはもはや全体的な世界像を手にしていない」とパウリは書いている。なぜなら、「本質的に、自然全体を理解することはどうやっても不可能である」というのが量子物理学の深遠な主張だからである。ハイゼンベルクの不確定性原理がはっきりと述べているように、ある事実(たとえば電子の位置)を把握すれば、その瞬間にもう一つの事実(この場合なら電子の速度ないし運動量)は手からすり抜けてしまう。
p.324『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

共時性とシナジー

本書に出会ったことで、物理学に対する見方が少し変わりました。パウリとユングが探究していたように、意識もしくは生命というものは、あらゆる領域をひとつにつなげる総合芸術としてあることが、物理学によって公式化されることは、世界を変えることになります。

パウリはエネルギーと意識を結びつける経路として、共時性を探り当てたようです。

筆者が大好きなバックミンスター・フラーは、パウリと同時代の研究者ですが、両者の交流がなかったことは残念に思います。もしあったのなら、”とんでもない”シナジーが発生し、現代とは異なる様相を呈した世界になっていたかもしれません。

『テトラスクロール』でフラーは共時性については述べていませんが、非同時的物語宇宙によってシナジーを解説しています。

 母さん熊の鼻先で輝く北極星、あの星は680光年も遠くで光っている。680年昔といえば、ああ、ダンテが『地獄篇』を書いていたころだ。
 それから、ウィーの前足のつま先は43光年向こうで輝く光のショウ。43年前、1929年から39年まで続いた世界大恐慌のどん底あたり、ちょうどフランクリン・デラノ・ルーズベルトがはじめて合衆国大統領に選ばれたころのことになる。
 そしてもちろん、ゴールディ自身も光のショウだ。ただし彼女の場合、このショウは自分と時間も空間も離れていないところで演じられている。
 こんなふうに、最小のシステム、四面体をつくるゴールディたち4つの光のショウは、同じ時にはじまったものではない。けれど、全体としては関係し合い、みんなが結びついてひとつの物語をつくっている。
 こうしてゴールディは、アインシュタインの考えを理解した。この宇宙はひとつの物語であり、非同時的な構造であるという、あのアインシュタインの考えを。
p.4『テトラスクロール』
 時間、空間に深く関わったこの非同時的物語宇宙では、どんな”行為”も”反応”と”副作用”(回転効果)の両方を生みだす。行為も反応も副作用もみんなベクトルで表わせるから、これら三者の様子は矢印をつないだ絵で描くことができる。この絵は三角形に閉じる場合もあるが、そうはならずに開いてしまう場合もある。(中略)
 さて、ここで2つのベクトル三角形が組み合わされて正四面体の4つの三角形ができたのだから、この6本のベクトルから成る正四面体もシナジーを現わしたことになる。これはなにも魔法じゃない。目に見える2つの三角形がいっしょになることで、さらに2つの三角形が現われたのだ。
 この新たにつけ加わった今まで目に見えなかった三角形は、いったいどこに隠されていたのだろう?そう、それは目に見えない宇宙のなかに、宇宙の99.9%を占める、完全に抽象的で、重さのない、諸原理だけからなる、目に見えない宇宙のなかに隠されていたのだ。この宇宙には、目に見える宇宙を補う、目に見えない宇宙がある。2本のベクトルの一端を合わせれば、第3辺に当たる見えない第3のベクトルがつねに隠れていると思っていい。
p.14『テトラスクロール』

ところで、「共時性」は "synchronicity" ですが、「非・同時的」は英語でなにになるのか、原文を当たって調べました。

In nonsimultaneous Scenario Universe every event action has both reaction and resultant “side effects” (precessions), which may be graphically represented by three angularly associated vectors that can take either open or closed forms.
P.24 "Tetrascroll, Goldilocks and the Three Bears, A Cosmic Fairy Tale" – R. Buckminster Fuller

「非・同時的」は "non-simultaneous" です。

"synchronous"と"simultaneous" は、frequency「周波数・周期」と関連するかしないかで区別されているようです。
"synchronous"は意識活動で、"simultaneous"は宇宙的生命現象という印象を受けます。

ユングによる共時性の説明は次の通りです。

 パウリの理解では、共時性は物理学で扱う過程には適用できなかった。一方、ユングはまったく異なる説明を与えた。彼は「共時性とは、明確な『原因』がないのに『同じような』事柄を同時に生起させ、それによってある種の秩序をもたらす体系であると解釈することができるだろう」と言い、さらに「私には、共時性を二つの心的状態の一致や、心的状態と非心的事象との一致だけにかぎらなければならない理由がわからない」と述べている。ユングはパウリの考えとは反対に、共時性の概念を拡張して、あらゆる種類の偶然の一致 ーー それが二つの心的状態間の一致であろうと二つの素粒子間の一致であろうと ーー を包含するという考えを提示した。
(中略)ユングはパウリへの手紙のなかで、この図式は「一方では現代物理学の基本的な要請を満たしており、その一方で無意識の心理学の要請も満たしている」と述べた。
 それに対してパウリは、ユングが与えた共時性の定義 ーー「偶発性、等価性による不連続的関連性」 ーー は量子物理学をはじめ、因果関係の及ばないあらゆる系(システム)に適用されるように思われると伝えた。パウリが興味をそそられたのは、ユングによる元型の定義の拡張(新たなマンダラ図に関連して提示したもの)が統一的な世界観を生みだすための手立てを与えてくれるように思えたからだった。これは、元型の概念も何らかの方法で量子物理学に適用できることを意味しているのだろうか。おそらく「量子物理学の元型的要素は確率の数学的概念のなかに見出されることになるだろう」とパウリは考えた。
p.317-8『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

意識と現象の照応関係は常に起こっていて、特定の人間によって認識されたとき、「共時性」という名称が与えられる。そしてその不連続な「共時性」はひとつの元型へと集約される。

そう解釈したとき、フラーの非同時的物語宇宙が、「目に見える宇宙を補う、目に見えない宇宙」として立ち現れます。

フラーのシナジーの正四面体は、黄道十二宮を2π=420°=♡によって脱構築した7のサイクルに基づく天使暦にも適用できます。それに関しては別途記事にまとめます。

ユングの盲点:男性中心の黄道十二宮と異なり、男性性・女性性の対称性を表わす易経

黄道十二宮というと、拒絶反応を起こすのが科学者としての礼儀作法とでもいうような風潮のもとで、ユングは臆せず研究対象に据えていました。ユングと同じく型に嵌らない思考の持ち主であるパウリはそれを退ける愚を犯すことなく、怜悧な考察によって、黄道十二宮を次のように評しています。

獣帯はまだ「正しいとは言えない」。パウリはそう感じたのだが、なぜ正しくないのかの理由はわからなかった。なぜキリスト教のなかに男性中心のものの見方が現われたのかを検証する際、ユングは重要な問題を見逃してしまい、そのために誤りに導かれてしまったのではないだろうか。ユングは手がかりをキリスト教のなかにしか求めなかったのだ。パウリは十二宮図が紀元前にまでさかのぼることに思い至った。そこで、ユングとユング学派の研究者たちが「かたくななまでに無視」していたもの、すなわちホロスコープの文化史を調べてみようと考えた。(中略)
男性を上位とするホロスコープが用いられているのは、キリスト教の男性的なものの見方、したがって四よりも三を優先させる態度とも密接に関係している。三から四がどのようにして現れるのかを追究するなかで、キリスト誕生以後の時代に焦点を当ててしまったのがユングの間違いだったのだ。
 こうしてパウリは、どのようにして三から四に移行するかという二千年来の問題に答えを与えたーーー少なくとも自身が納得できる形で。さらに言えば、彼はこの問題が二千年前どころではなく、もっと古いバビロニア時代や由緒ある『易経』にまでさかのぼることをはっきり理解した。パウリは数学的な対称性への憧れが強く、その視点を『易経』の解釈にも持ち込んだ。パウリによれば、『易経』には「陰(女性的なもの、地上のもの、暗黒。すなわち月)と陽(男性的なもの、知的なもの、光。すなわち太陽)の対による完全に対称的な心的態度」が示されている。だが、ホロスコープにはそのような対称性は何も見られなかった。
p.350『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

陰陽の対称性について、筆者の見解を述べさせていただくと、陰は月ではなく、不可視領域のエネルギーです。
月は現象化の装置であり、実体のない幻影を映し出すモニターなので、太陽と対比するのは間違いです。
太陽は恒星なので、同じ恒星が対応します。
フラーのシナジー効果は恒星間の相互作用によって発生します。月自体にはエネルギーがなく、太陽の光を反射するだけなので、相互作用は発生しません。

パウリの盲点:陰・陽:月・太陽の取り違え

筆者に言わせると、パウリが一般理論の創出をしくじった要因は、陰陽を恒星と太陽ではなく、月と太陽に取り違えたことにあると思います。
これはパウリだけに限らず近代以降の西洋科学に浴した知識人によって作られた盲点です。
近代の集合意識を形成するとき、恒星から月へのすり替えが起こったことにオカルティスト以外は気づいていないのです。学者はもとより宗教家ですら盲点を認識できずにいることがほとんどのようです。

月は鏡です。
パウリは陰陽が鏡映対称性を表わすものだと思ったようですが、実はフラーのシナジーを表わしています。

鏡映対称性は不毛です。片方にしかエネルギーがなく、相互作用が発生しません。

双方がそれぞれ持つ対極のエネルギーが同時に反転して活動し相互作用を発生させている陰陽図はシナジーの四面体を表わしています。

マリア・プロフェティサの公理

”一は二となり、二は三となり、第三のものから全一なる第四のものが生ずる”

古代の女性錬金術師が遺したこの言葉は、フラーによってシナジーの四面体として再生しました。まさに、非同時的物語宇宙の表れです。
そして、パウリとユングもその物語の一端に組み込まれていたようです。

 このあとユングは、これまでずっと魅了されてきた三と四をめぐる問題に立ち返り、量子物理学が古典物理学の三つ組みーー空間と時間と因果性ーーを拡張して共時性を取り込み、それによって四つ組み(四元性)を実現したことに気づいた。この好ましい展開は、ユングによれば錬金術師たちの古くからの問題、すなわち「いわゆるマリア・プロフェティサの公理」に要約される内容に答えを与えた。マリア・プロフェティサの公理では「一は二となり、二は三となり、第三のものから全一なる第四のものが生ずる……とされる。この謎めいた言葉は、私が先に述べたことの正しさをはっきりさせる。すなわち、これまでとは異なる新たなものの見方は、原則として、すでによく知られている領域で発見されることはなく、その忌まわしい名のために避けられてすらいた奥地で発見されるということである」。
p.320『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

フラーが「この宇宙には、目に見える宇宙を補う目に見えない宇宙がある」と説いたように、不可視・不可知領域について洞察すること、それは、鏡に映る像の向こうにある実体を把握しようとすることであり、知性が研ぎ澄まされていくとイメージによるノイズが排除され、概念をクリアにとらえる霊視に到達します。

パウリの受け止め方では、高次の数学的対称性と、ユングの言う意味での対称性を備えた彼らの理論は、やがては微細構造定数を導けるようになる統一理論へ近づくための一歩であるだけでなく、心の統一理論の第一歩でもあったのだ。
p.418『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

マリア・プロフェティサの公理は時を経て、フラーによるシナジーの四面体として現わされました。
そして筆者が、二つの正四面体を上下に組み合わせたメルカバー(マカバ)を意識のグリッドとする天使ゲマトリアによるコロナ体操を2020年から展開しているのは、これも物語の一端と言えるのかも知れません。

コロナ体操

鏡映対称性とテレパシー

鏡に映る像にリアリティを注ぐのではなく、鏡面の向こう側にいる存在と、こちら側にいる自己がつながっているということを認識する。
鏡の向こうを透視することで、そのつながりをとらえることができるはずです。

ただ、鏡をはさんで隔てられているこちら側と向こう側には、対称性があるということを主張したところで、下手をすると狂人扱いされかねません。
なぜなら、可知・可視領域しか認識していない通常の意識状態では、鏡に映る像がすべてだからです。映し出されたものを見てこれはこういうものと認識できても、実際にはそれは半分、鏡のこちら側の片面の世界だけを見ています。

鏡によって隔たれていることで認識できない領域があることを納得できなければ、認識できる領域との対称性、そして共時性によるつながりも受け入れられないため、鏡に映し出された片面の世界に迷い込むことになります。

鏡によって隔てられたこちら側と向こう側をつなぎ交信するための経路は認識できないだけで、はじめからあり、認識できた時、それを使った交信手段が可能になります。それがテレパシーと言われているものです。
それは、内なる真我へ至るゲートであり、透視・霊視も含めて、人間本来の能力ですが、可知・可視領域に囚われた意識では、それが異常だったり特別なことのように思えるのです。

リンク先のブログ「スサノオと出口王仁三郎」でテレパシーについての記事で、エドガー・ケイシーの引用にも、そのようなことが書いてありました。

心理学+物理学=神秘主義(オカルト)科学

パウリが探究していた、神秘主義と科学がともに志向する”知の一体性”には、テレパシーや透視・霊視に使われる意識のテクノロジーを、物理公式として表わすことによって、認識できない領域を含めた”万物理論の創出”へと至る道すじが示されていたのかも知れません。

なぜ神秘主義のしかるべき形態が現われる必要があるのかについて、パウリは明確な考えをもっていた。
「これまでも、そしていまも私が抱えているほんとうの問題は、神秘主義と科学との関係です。どこに両者の違いがあり、何が共通しているのでしょう。神秘主義者も科学も目指しているところは同じで、その目標は知の一体性を自覚できるようになることにあります」
p.353『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

それは、可知・可視領域と、不可視・不可知領域との対称性を公式にするということだと思います。
”鏡”は、それを隔てるものなのですが、”鏡”に映る像によって、両者の対称性を見失っているのです。

言うまでもないことだが、まわりを見回せば、人間の身体だって左右対称になっていない。だが物理学者たちはそれまでずっと、物理学の法則には鏡映対称性があって当然だと決めてかかっていた。(中略)
 それでもパウリは、対称性を有する原理や法則のほうが一般的でなければならないと固く信じていた。
p.375『137 物理学者パウリの錬金術・数秘術・ユング心理学をめぐる生涯

人間の身体は、大宇宙との照応関係によって活動する小宇宙です。
パリティの破れは、左右の別を明らかにしました。
身体の左右は、鏡に映したように全く同じではありませんが、対称性があり、一体となって生命活動をしています。
しかし、鏡で隔てられることによって、左右の対称性は失われ、一体のものとして連動しなくなります。

意識と鏡との関係について、シュタイナーは次のように述べています。

…通常の意識をもって内面を見ると、外的な生活の反映しか見出せないのです。

…私たちが本当に自分の内面を見ようとするなら、この内なる意識の鏡を破らなければならないのです。…では一体、人間の内面の鏡の奥には何が見えるのでしょうか。そこでは、思考内容がエーテル体の中で働いている姿が見えるのですが、そのエーテル体は、途方もないエネルギーをもって働いています。…記憶内容、思考内容の力が、エーテル体にまで浸透しますと、この力に浸透されたエーテル体は、特別のやり方で肉体に働きかけ、肉体の中の物質成分に大きな変化を生じさせているのです。…人間のエーテル体は、記憶が映し出されるところよりも内面のもっと深いところで、物質をカオスに帰し、物質を完全に破壊することができるのです。

…西洋文明の中で生きている人は、自分の内部に破壊のかまどを担っているのです。そして私たちが破壊のかまどであることを自覚できたときはじめて、西洋文明の下降する力を、上昇する力に変えることができるのです。

…人間一人ひとりの内部で物質をカオスに帰しているこの働きが、いま、自覚されずに外に出てきて、社会生活をいとなむ人間の本能を破壊に駆り立てています。その結果が、西洋文明となって現れているのです。…人間の思考力を発達させるためになくてはならぬこの内なる破壊のかまどに、どうかできる限り意識的になって下さい。…西洋の現代人は、この破壊のかまどを外に持ち出しているのです。

…物質がカオスに帰した時、そして道徳法則が物質に働きかけたとき、私たちの内面で、自然に、霊の働きが生じるのです。そのとき私たちは、自分の内面の中に霊の働きを認めて、今はどんなに人間に絶望しなければならないとしても、この働きこそが、未来の世界の萌芽なのだと、実感できるようになるでしょう。

…記憶の鏡の背後の内なるカオスに沈潜するときの語らいは、聴くことと話すことがひとつになっています。…内なる言葉は、同時に客観的な言葉です。私たちの内面が語っているのではなく、私たちの内面の舞台の上で、世界が語っているのです。
シュタイナー 悪について

鏡に映る像に惑わされずに、鏡の向こう側との経路を物理公式として現わすことができれば、オカルトが意識のテクノロジーであることが明らかになるでしょう。ただし、そのときはすでに、物理公式は必要とされないかも知れません。

誰もが当たり前に不可視・不可知領域との対称性を見出すことができれば、もうそれは、思ったことが即実現する弥勒の世と言えるからです。

フラーも弥勒の世を予見していたはずです。『テトラスクロール』の最後で父さん熊に次のように語らせています。

…わしらはこの空の高みからずっとながめてきた。数百万年という年月にわたって、宇宙が惑星”地球”に心の基地を打ち立てようと試みてきたさまをね。うまくいくかなと思っていると、いつでも無知から出た恐れとか、確かに一度は必要だったかもしれないけれど、もう必要はない利己主義の残りかすとかが、歴史の子宮からうまく飛びだすのを邪魔して、それを遅らせてしまう。確かに母さんのお腹のなかだったら無知も許される。そこは豊饒で人間の生活を支えてくれるし、代謝を続けながらゆっくりと育っていけばいい。そのなかなら試行錯誤を充分繰り返すこともできるし、またそうすることで宇宙の原理を発見していくわけだ。そして自分たちの心の大切さを知り、宇宙のなかでの自分たちの役割りにも気がついていく。しかしね、その自分たちの役割りというのは母親の子宮を飛びだし、自分自身のメタフィジカルな完全性を打ち立ててこそ実現できるものだということも、同時にわかってしまうのだよ。
p.127『テトラスクロール』



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