角部屋
あれは、私が十数年ぶりに日本で部屋を借りたときのことだった。
久しぶりの日本での生活にわくわくし、日当たりの良い角部屋を借りた8月のこと。
シャワーのお湯がやたら熱く、何度か業者に来てもらったのに直らなかったことには物凄くストレスを感じていたけれど、それを除けば何もかも、順調だったように記憶している。
家具家電もやっとすべて揃ったお盆。早速愛着が湧き「末永く使っていけたら」と思っていた矢先にそれは起こった。
ジョボジョボジョボ…
フリーランスの私はお盆なんて特に関係なく、家にこもり仕事をしていたのだけど、どこからともなく水が湧き出るような音がしてきた。
ジョボジョボジョボ…
妙なのは、音が聞こえてくるのが風呂場や、洗面所や、洗濯機や、トイレや、台所方面からではないこと。
ジョボジョボジョボ…
間違いなくリビングから聞こえてくる。
角部屋の恩恵をフルに受け、窓が多く明るいリビング。
そんなリビングの、隣の部屋に面していない角、マンションの建物自体の角の天井部分から、涌き水のように水が滲みだし滝のように流れていた。
その真下には、買ったばかりの末永く使いたいテレビを置いている。
慌ててテレビをどけ、タオルや雑巾を床に敷き、洗面器で滝を受け止める。
幸いにもテレビにはあまりかかっていなかったけど、汗が沁みたTシャツのように壁紙の色が変わっていく。
このままでは壁紙にシミができたり、カビが生えたりするかもしれない。それは困る。
急いで管理会社に報告をした。
「上の階はオフィスとして使用されていて、お盆休みで今誰もいないかもしれない。水道修理業者に連絡するから待っていてくれ。」
そんな感じの説明を受け、ただボーッと滝を見ていると、インターホンが鳴った。
水道修理業者かな。
玄関のドアを開けると、そこにはおばあさんがいた。
「505号室の者です。水漏れがあったと聞きましたが、うちではないです。」
私は305号室だったのだけど、ご丁寧にも、2階上の方が無罪を主張しにきてくださったのだ。
「わざわざありがとうございます」と見送りリビングに戻ると、滝はもう止まっていて、壁紙もすっかり乾いていた。
速い。速乾。夏だからか?
心配していたシミも、できていない。
ホッと胸をなで下ろしたとき、水道修理業者が到着した。
滝は止まってしまったし、壁紙も綺麗に乾いてしまってトラブルの痕跡はどこにもなかったけど、滝動画を撮っておいたのでそれを見せ、505号室では水漏れがないらしい、ということを伝えた。
怪訝そうな顔をする水道修理業者。
「水道管の位置と、上の階を確認してきます。」
しばらくして戻ってきた水道修理業者が言うには、
「風呂、トイレ、台所から離れたマンションの角の部分なので、水道管が通っていない。」
「雨漏りでどこかに溜まった水が何らかの拍子で溢れたのだとしても、そういう水は腐っていて汚いから壁紙にはくっきり跡が残るし、動画のように綺麗な水であるとは考えられない。」
「それから…」
水道修理業者が少し間を置いて言った。
「この建物は、4階までしかありません。」
私は引っ越して来たばかりで、低層マンションだということは知っていたけど、何階まであるのかは水道修理業者さんに言われるまで知らなかった。
「そう…ですか…。」
それ以外、何も言えなかった。
じゃあ、あのおばあさんは?
汗だくの水道修理業者。
8月の蒸し暑さのせいなのか、ヤバい客にあたったという焦りによるものなのかは定かじゃなかったが、気まずい。
私は沈黙を破った。
「…あっ。ついでにシャワーも見ていただけませんか?熱いお湯しか出ないんです。」
彼はすぐさま手際よくパーツを分解して原因を特定し、見事にシャワーの温度調節機能を直してくれた。
「お盆に本当にありがとうございました。」
救世主を見送る。
彼自身は「生還者」気分だったであろう。
でも、私はたしかにこの耳で聞いた。
いや、405号室の聞き間違いだったのか?
そうであって欲しいと願い4階に行ってみると、オフィスとして使用されている4階はゆったりとした間取りで、そもそも403号室までしかなかった。
結局、滝の原因も、あのおばあさんの正体も、わからずじまい。
お盆。
ひょっとすると、熱湯 or 冷水シャワーという究極の選択に苦しめられていた私を見かねた先祖がこの水道修理業者さんと巡り合わせてくれたのでは?
もしそうなら、おかえり。ありがとう。夜中にトイレ行けるかしら。
いろんな感情が交差したけど、唯一の救いは「505号室のおばあさん」がホラー要素満載の先祖(白い着物を着ていそう)ではなく、淡い紫の色眼鏡をかけた野村沙○代さんのような方だったこと。
すごく、私の先祖っぽかった。
久しぶりに日本で迎えた蝉のうるさい夏だった。