夜、積ん読の背表紙を眺めて想像を巡らせる
本を積んでしまう人間だ。二十代前半まではそうでもなかったが、徐々に徐々に積ん読が増え始め、ついに二百冊近くになった。そこから読んで減らす、ということはもちろんなく、絶対に十年以内に読むことはないという本を見極めて、新古書店に買い取ってもらったり、メルカリで売ったりして百四十冊以下に減らした。
それでも魅力的な本がこんなにあるのか、という感動もあり畏怖もあり、時々本棚の積ん読を眺める。どれも素敵な本だ。好きな作家の本だったり、よかった作家の次の本だったり、表紙がお洒落だったり、行ったことのない外国出身の作家のエッセイだったりする。見ているだけで想像が巡らされる。
今日はその本の内容を勝手に想像しながら積ん読本ツアーをしてみようと思う。
清少納言『枕草子 下巻 現代語訳付き』
最古の積読本である。『枕草子』を読んだことがあるだろうか。日本三大随筆のひとつで、中宮定子を想い、彼女のために尽くした清少納言の彼女のための随筆とも読める、短い章が連なるなかなか厚い本だ。清少納言はどうしてこんなに中宮のことが好きなのかなあと思いつつ、フレッシュで明るい感性が好ましいような気がする。上巻で満足してしまい、下巻には至っていない。中宮没後の切ない胸の内を読めるというのを読み、なんだか面白そうな気もするが、延々中宮のためにああしたこうしたと言っているんだろうなあと思うと何となく読む気がしない。でも読んだらハマると思うのだ。私は何となく紫式部より清少納言のほうが好きで、読むとねっとりしっとりとした『源氏物語』よりさっぱりして楽しい。でもこの厚みは……。十年後とかに読みたい。
ミア・カンキマキ『清少納言を求めて、フィンランドから京都へ』
正確には積ん読というよりは読みかけの本なのだが、五年くらい放置しているので紹介する。
十五年ほど前に日本を訪れたフィンランド人の著者が書いた、清少納言と日本についてのロングエッセイ。日本へのカルチャーショックとか、当時外国人が住んでいたゴキブリたっぷりの寮とか、日本嫌いの北欧人の仲間とか、デビューしたばかりの市原海老蔵の美しさだとか、たっぷりと描かれた長いエッセイだ。このあと東日本大震災の記述があるのかあと思うとなかなか読めなかった。ちょいちょい清少納言『枕草子』が引用され、ちょいちょい清少納言に呼びかけるのもなんとなくついていけなかった。でも読んだらまたハマると思う。なんだかんだ言って三分の一は読んでいるのだ。
ルネ・ドーマル『類推の山』
未完の幻想小説だ。とても魅力的なあらすじだし、貴重な本だと思うし、読んだ人は楽しんだようだし、読みたいのだが、何せ未完なので後回しになってしまうのである。
未完だけどこれほど人気。ということは、すごく面白くて此岸から彼岸へと勢いよく連れ去られるようなすごい読書になるに違いない……、と十五年前から思っている。
紫式部『紫式部日記』
読みたいなと思って買ったが、紫式部の性格が悪い、ねっとりして楽しくない、しつこい読み味、と聞いてしまい、伸ばす手を止めてしまった。それから十五年が経つ。
ホルへ・ルイス・ボルヘス『砂の本』
ボルヘスは何冊も読み、どれも面白いのだが、とても濃い読書になるのが確定しているので十年ほど放置している。ちなみに他にもラテンアメリカの作家の本をいくつか持っていたが、それは売ってしまった。ラテンアメリカは何となく自分の中での盛りを過ぎているような気がする。砂が勢いよく流れていくような、砂の流れを乗り越えたら見えるすごい景色のようなものがあるんだろうなと思ってはいる。
莫言『赤い高リャン』
リャンは梁に似た漢字。ノーベル賞受賞作家のすごい本らしいので、きっと読んだら感動するのだろうと思うのだが、いつか読もうと張り切って買ったはいいものの、中国の田舎に日本軍がやってきて……の混沌としたあらすじで、覚悟がいりそうと思って放置している。混沌の描写が上手ければ上手いほど好ましいのだが、さて、これはどんな作品だろうか。
Steven Millhauser『Enchanted Night』
洋書である。読みやすそうである。というかミルハウザーは基本的に読みやすいし、何ならこれを買ったあと訳書を読んだ。もう読む必要はない気もするし、ある気もする。柴田元幸・訳の『魔法の夜』は月夜の下での幻想的なストーリーで、ミルハウザーらしい優しい夜の作品だった。もう英語学習用にして読むかという気分である。
というわけで、積ん読本の背表紙を見ながら想像を膨らませてみた。ほとんどが読まない言い訳だが、何となく読む気が増した気がする。とりあえずは飛浩隆の連載目当てで積んでいるSFマガジンをどんどん読んでいこうと思う。もう二年も溜めているので、いい加減にしないと……。