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読書が習慣になったきっかけについて考える
この一年ほどは、YouTubeを観ることが習慣になっている。スマホを扱い始めて10年ほど経つが、何故かYouTubeは最近までハマらなかったのだ。理由としては本を読むので、何か知りたいことがあるときはYouTubeのテロップの遅さがイライラするというのがある。普段文章を読むのが速いので、テロップが遅すぎるように感じるのだ。もちろん倍速にすればいいのだが、それにしてもまどろっこしい。本なら大体ここのあたりで結論かなとアタリをつければいいのだが、YouTubeはずっと話を聞いていなくてはならない。というわけで、YouTubeはあまり好きではなかった。
最近は、そうでもない。何か知りたいときはYouTubeではなく本やネットの情報を利用するのは変わらないが、Vlogというジャンルにハマったからだ。
Vlogというのは日常を映画のように、あるいは映像版ブログのように映した動画で、動画主を主人公として料理をしたり掃除をしたり、猫を撫でたり部屋を美しく設えたりする様子を映したものだ。その中には本を読むのを習慣とするYouTuberもおり、観ているうちに自分も本を読みたくなってくるので、何となくやる気が出ないときに観たりする。もちろんそのようなYouTuberも、活動的なときや部屋が整っているときしかカメラは回していないだろうが、本を読む一助となる。
そのようなYouTuberの中に、最近本を読み始めたという女性YouTuberを見つけた。その人は本の魅力について、それによっていかに自分が変わったかを生き生きと語っていた。ふと、私が本を読むようになったのはどうしてだっけと考えた。小中学生のころは確かに本を山ほど読んでいた。でも、一旦高校で読まなくなったのに、大学から読むようになったのはどうしてだっけ、と。
結論から言うと、私は大学の文学部に入ったので本を読むようになった。高校では全く読んでいなくて、ハリー・ポッターとダレン・シャンくらいしか読んでいなかった。理系のクラスにいたし、周りとも本の話はしなかった。皆勉強熱心だったが、小説や詩歌など、文学と呼べるものには興味がなさそうだった。私もそうだったのだ。
それが理系教科の不振で、何となく文学部に入った私は、本だらけの文学部研究室の様子に焦るようになる。専門の講義は当たり前ながら文学だけだし、皆本を読んでいる。読むしかない、と大学生協で小川洋子の『まぶた』を何となく選んだのが方向を決めたと思う。
小川洋子は面白かった。暗くて幻想的な雰囲気で、現代文学の面白さを教えてくれた。それから川上弘美。『センセイの鞄』はエロティックでユーモラスでとてもよかった。倉橋由美子に尾崎翠に吉屋信子に森茉莉。どれも耽美で幻想的で退廃の香りのする文学だった。もちろん男性作家もたくさん読んでいて、村上春樹や安部公房、谷崎潤一郎や三島由紀夫もたくさん読んだ。エンタメもたくさん読み、森博嗣はエッセイまで追いかけるほどで、浅田次郎も文庫がタワーになるほど買って読んだ。
振り返ってみればいい時代だった、と思う。大学の学部によっては本を読む暇もないほど勉強しなければならないところもあるだろう。それが大学の授業や研究のためという名目で山ほど、一日中本を読めるのだから。
文学部は就職に向いていないと言われるが、本を読む習慣がついただけでも私には有益な学部だ。私は本を読むようになったことで命を救われたと思っているのだ。当時悩んでいたことは雲散霧消とはいかなかったが、本を読むことで想像力や知識の世界の広さや深さを知り、自分が死にたいほど悩んでいたことを誤魔化しつつ、人生を何度も引き延ばしてここまで生きてこられた。本というのはすごいのだ。
というわけで、私は小説を書く人となった今も本を読んでいる。最近は韓国の作家ハン・ガンにハマっている。日本の作家は飛浩隆の新刊を楽しみにしている。国書刊行会から出た豪華なエンボス加工の本、イーディス・ウォートン『ビロードの耳あて』を買ってしまったので、それも近いうちに読みたいと思っている。
大学生協でふと手に取った文庫本から、思えば遠くに来たものだ。さあ、今夜も本の世界に飛び込もう。