営業は弁論術であってはならない
私は普段はサラリーマンとして仕事をしている。
日々、もちろん顧客に向けて営業をしなければいけない。
自社の商品を買ってもらうために色々と社内研修がある。
そこでよく研修で出てくるトピックが「話法」だ。
話法とは、顧客の購買意欲を上げるために、話を工夫することである。
しかし、私は小手先の技術でお客様に商品を買ってもらうことは、詐欺同然だと思っている。
よく自己啓発本でも「購買意欲を上げるトーク術」や「営業力アップのための仕事術」など、色々な営業に関する本が売ってある。
でも結局、お客さまが求めているのはあくまで「商品」であって、買ったあとに付き合っていくのも私たちではなく「商品」だ。
なので「営業」はあくまで「商品のお知らせ」にとどめなくてはいけない。
商品を買うか買わないかはお客さま次第だ。
売り手は、その商品のメリットとデメリットを正直に詭弁なくお客様にお伝えする使命がある。
古代ギリシャの哲学者、ソクラテスは「弱論を強弁している」との罪で、裁判にかけられ、結局死刑に処せられてしまった。
しかし、これは全くの誤解であることが後世の私たちは知っている。
ソクラテスは、当時からソフィスト(知を愛するもの=哲学者)と呼ばれていた。
しかし当時のソフィストといえば、政治の舞台での討論などで、他人の意見に打ち勝てるような弁論術を教える人のことを指していた。
お金持ちになりたい人は、小手先の技術で相手を言い負かすような技術を、こぞってソフィストから学ぼうとしていた。
しかし、ソクラテスはそれを批判している。
お金や権威に目をくらませることなく、本当の善とはなにかを追求することが真のソフィストだとバッサリ斬り捨てているのだ。
営業の考え方もそうではなかろうか。
顧客を騙すかのごとく、商品をよく見せ、後のことを考えずに買わせることは決してあってはならない。
この商品を買って、本当に顧客が幸せになるのか、デメリットがあれば正直に顧客に伝えること、それが真のお知らせであり、営業における善だと思う。
一方でもちろん、私たちは自社商品を買ってもらわないと食っていけなくなる。
もちろん、商品が良くないとおススメもできないし、売ることもできない。
我々下っ端のサラリーマンはいつもその狭間で苦しんでいる。
そんな売り手の在り方も、ある意味資本主義の弊害なのではないだろうか。
物を売ることのプレッシャーから、解放される日は来るのだろうか。