善悪は自己愛から逃げられない人たちのための基準
この世界には善悪は存在しない。あるのは人間が決定した基準の中での善悪である。
この集団で生活するなら、このルールは守ってください。そうでなければ、このサービスは受けられません。さもなくば、監獄に入ってください。
と上述のことに自覚的な人間、ニーチェの言葉を借りれば「超人」はこの世界では自由に生きることができないだろう。
こんなことを書いてる僕も、結局はこの日本という集団の中に属し(国籍を有し)、赤信号は止まり、青信号を渡っているのです。
ただ、僕は「ルールを破ろう。」とか、「犯罪を犯そう。」などのスローガンを掲げて他者の命を脅かそうとすることではなく、状況に応じて自分の意志で行動できないだろうか?ということを主張したいのです。
自分の意志で行動するとはどういったことか。
道での歩行者の振る舞いで例えると、歩行者用の信号は赤の状態だと、車道は青になっているだろう。その状況で車が通っていなければ、赤信号でも渡るという行動をお勧めしたい。もっと言えば、信号を見ることなく、車が通っていなければ、(大袈裟ですが)道のど真ん中を歩いていこう。という話です。
では、なぜ人はルールを守るのか。それは標題にもあるように、「自己愛」が原因であると考えています。
「自己愛」とは何か、それは明らかに渡っても大丈夫な道なのに他の人が見ている状況の際に発動する、周りと違ってはいけない、なぜなら他人から変な目で見られたり、徴つきだと思われることを避けたいという欲望が「自己愛」と僕は定義する。
人の欲望を否定しているように思われるが、少し違っている。僕が言いたいのは、そんな人はいないと思うが、欲望の根源的に「ルールを守りたいから守る。」ではなく、「他の人に変な目で見られたくないから」という自己愛によるルールを守る行為について疑問を投げかけたいのである。
理屈臭いですが、自分の判断を信号という他者に依存している状況は、家畜と同じです。家畜が悪いと言っているのではないですが(家畜についてはいずれ書きます)、盛り場や悪場所のような家畜から逃れられる場所の景観は、生きてる感覚を感じられます。
被られることが当たり前になった社会で、安心安全な生活を送れるのは確かですが、理屈なしで言えば、ただただ「生きてる/生きていない」の感覚の問題なのかもしれません。
動く信号機を使って自分の意志で行動をするハプニング(パフォーマンス)を行ったりしています。
参考文献:中島義道「悪について」岩波新書
ニーチェ「道徳の系譜」岩波文庫
ニーチェ「善悪の彼岸」岩波文庫