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【感想】村田沙耶香『コンビニ人間』

村田沙耶香さんの『コンビニ人間』、ネタバレありの感想です。


黒い羊

読んでいてずっと息苦しい話だった。
魚が肺呼吸をしようともがいているような……そこまでではなくても、ウクレレがバイオリンの真似をしているような。イルカやクジラが陸の哺乳類と同じに振る舞おうとしているような。

というのは、数ページですでに主人公・古倉にはASD傾向があると感じたからだ。
公園で、亡くなった小鳥が可哀想だと泣きながら花を「殺して」墓に供える他の子どもたちを理解できない様子。
目的のない雑談を複雑に感じ、友人から不審がられない言葉を探すことばかり考えて楽しめず、休日なのに「早くコンビニに行きたいな」と考えている様子。

嫌な人間、ダメ人間、とはまた違う。
敢えてそういう言い方をするならまさにコンビニ人間だろうか。
コンビニで労働するために、生きていくために、身体も心も最適化されている。働いていない時間ですら。

もっとも、安易に上記のようなラベルを貼るものではないし、「普通」の人たちが無自覚に「こちら」側と「あちら」側の線を引くことだとか傲慢だよね、っていう描写が作中にあったのだし、先の段が適切な表現かどうかは断言しかねる。

君はそういう人だから、これが理由でこうなんだよね、って自分の理解が及ぶ範疇に落とし込んで理由をひねり出すけど結局的を射てない、なんてきっとあるあるだ。

そういった言葉を発信する側に「悪意」があることは意外と少ないと思う。
とはいえ、無自覚に相手に対する優越感を抱きたがっていたり、プライドを守ろうとしていたり、未知のものをそのまま受け止められずにそういう発言が出るのだろうから、やはり好ましくはない。

きつい物言いをしているけれども、やってしまったこともされたこともあり、今後もおそらくそうだからこのように書いている。微妙な立ち位置にいる。

異なるけれども、異なるだけ

ところでこの小説が面白いなと思ったのはそこから「お互いを理解、尊重しましょうね」とか、理解「されない」主人公の苦しみ、多様性みたいなところにほとんど紙幅を割かないところ。
主人公がそこに感情を動かさないから。
「みんなに理解されないな、ああ自分は異物、『あちら側』なんだ」で済む、済ませてしまえるから。
古倉に対する白羽の発言なんていちいち酷いものだ。何が酷いって、書きたくもない。それでも古倉は怒らない。ただ言葉を額面通りに聞いて、論理だけを追って会話する。

これを欠陥や欠落と呼ぶのかについて。
この小説を読んだ後ではとてもじゃないがそうは言えない。
毛づくろいのような雑談で群れ意識を高めつつ、期待通りに事が運ばなければ怒りを抱き、時にずけずけと下衆な勘繰りをしてしまえる人と、雑談が苦手で他人に興味も大した期待もなく、なるほど、そうなのかと怒らずに流してしまえる人、どちらが優れていて、どちらが欠落しているのか。
(なお、実生活の中で片方だけに、記号的に当てはまる人はほとんどいないであろう)

野生の中の「ヒト」という生物の群れとして見たときに生き残りやすいのはきっと前者だ。
個の強さには限界がある。
だから協力するために……他人に興味を持って相手の長所・短所を探り、群れでやっていくのに適切なポジションを探る。「善い」行動をしない、群れの規範を崩す他人には同調して圧をかけ、群れを修復する。ヒトはそうして今まで繁栄してきたはずだ。
しかし、裏を返せばそれだけのこと。協力して繁栄する、それだけが正しいなんて、どれほどの確信をもって言い切れるか。

感情という論理

妹が古倉のアパートに乗り込んできて白羽を説教するシーンは可笑しみがあって好き、キツいけども。

 そうか。叱るのは、「こちら側」の人間だと思っているからなんだ。だから何も問題は起きていないのに「あちら側」にいる姉より、問題だらけでも「こちら側」に姉がいるほうが、妹はずっと嬉しいのだ。そのほうがずっと妹にとって理解可能な、正常な世界なのだ。

村田沙耶香『コンビニ人間』文藝春秋、2018年、P133

「普通」の人にとって異常なおかしさと正常なおかしさとがあるのだろう。たとえ結果だけ見ればやっていることが同じだとしても、社会からズレているのには変わりなくても。
「こちら側」と「あちら側」を分けるのは、おそらく感情という論理の有無だ。

バーベキューのシーンにしても、遠まきに好奇の目で見られるのは36歳未婚フリーターだからというより「このままじゃ……あの、今のままじゃだめってことですか? それって、何でですか?」と純粋に尋ねているところが大きいだろう。
世間一般とのズレを合わせるべき、上っ面でもそう(合わせるべきだと思っている、ように)振る舞うべき、という概念、縛りが古倉の中には存在しない。
誰に迷惑をかけているでもないから、何を治せばいいのかわからない。

嫌な言い方だけど、ミホのように「毎日なんとか過ごすのでいっぱいいっぱいで、気づいたらこの歳になってたの」と情や実感のある言葉を返せれば、コミュニティから排除はされないのではないか。

ただ……そういう返答ができたとして、卑屈な同居人・白羽が言うように「普通」の人から「36歳未婚フリーター」という烙印を押されることは、完全には避けられないだろう。
集団で過ごすためにヒトは、レッテルを探して、貼って、ポジションを定めるから。白羽の言うところの裁判である。

水中でなら飛べるペンギンのように

物語中盤から終盤にかけて、白羽と主人公の社会からのはみ出し具合が似ていて、かつ得意不得意がはっきり違う様子が描かれていた。

いつも被害者の顔をしていて口ばかりで、その口も基本的には下卑たもので、真っ当な行動ができないが、認知の歪みはありつつ他人の情緒の理解はできていて、ある程度口も回る白羽。

実感としての感情が薄く、継ぎ接ぎに普通を模倣しつつ適応しきれないでいるが、目的や理由、マニュアルがあればタスクの実行には問題のない古倉。

案外相性はいいのかもしれない、これは歪ながらにお互いを補い合っていく話に落ち着くのか、と思っていたらそういうオチではなかったところに、いっそ爽やかさすら覚えた。

終盤数ページ、「コンビニの『声』」というワードが、古倉の脳内で、また白羽へ向けた言葉として、何度も何度も繰り返される。
確かに白羽の言うように古倉は普通の人ではなく、「狂ってる」のかもしれない。
しかし、コンビニを辞めて以降の張り合いの無い様子と比較して、コンビニの「声」を聞く古倉は水を得た魚のごとく急激に息づき、彩りを帯びており、「魔法みたい」に店舗を造り変えてしまうさまはハッピーエンドを謳うようだった。

古倉の調和は、棲み処は、この箱の中にこそあり、ここでコンビニ店員として生まれ、ひょっとするとのたれ死ぬのだと。自分という生き物の姿かたちをようやく知ったのだと。

この物語はフィクションで、されどファンタジーではない。

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