【映画感想文】48歳の今、本当に不幸か?『追想ジャーニー』(谷健二)
現状を不満に思っている48歳の主人公・文也は「退行催眠」を使って高校生の文也に会いに行く。
そして高校生の文也に、人生でしてきた選択について、あーだこーだ文句を言うのだ。
あぁ、たしかに人生って選択の連続だよなと思う。
シェイクスピアも〝人生は選択の連続である〟と言っている。
ケンブリッジ大学のBarbara Sahakian教授が行った研究だと、人間は1日にMAX3万5,000回の選択をするらしい。
はぁ、目が回る。
ということは、起きた出来事や自分の幸福度はすべて自分の選択の結果なのだ。
もちろん、選択の中には大きい選択もあれば小さい選択もある。
そして人生を大きく変えることになる選択もある。
48歳の文也が後悔していたのは、「どの女性を選ぶか」「できてしまった子供の認知をするのか」「母親との関係」など。
文也いわく、これらはとても大きな選択で、この選択を間違えたから48歳の自分が不幸なのだと。
しかし、本当にそうだろうか?
48歳の文也は、自分の不幸を過去の女性や母親のせいにして〝48歳の今〟を見つめようとしない。
高校生の頃、ある大人が教えてくれて印象に残っていることがある。
「よく、『今が本当に幸せだから、あのときAじゃなくてBの選択をして本当に良かった』と言う人がいる。でもBの選択をしても同じことを言うんじゃないかな?」
と。
この映画はこの逆だ。
恐らく48歳の文也はどの選択をしたとしても、きっと勝手に不幸だと思って勝手に後悔している。
だとしたら先述の〝起きた出来事や自分の幸福度はすべて自分の選択の結果なのだ〟というのは若干語弊があるような気もする。
つまり、どんな選択をするかは実はあまり重要ではなく「たらればを言わないこと」「結果をポジティブに受け入れること」「勝手に不幸にならないこと」が重要なのではないか。
この映画は、選択に責任を持つべきだとか結果を真摯に受け止めるべきだとかそんな堅苦しいことを言っているのではない。
人生なんてもっと簡単でいいんじゃない? と言いたいんだと思う。
「まだバイトしながら売れない役者やってるんだって?」
最後の母親のセリフに対して、文也は貶されると思いながら自信のない声で、イエスという。
しかし、夫と息子を置いて出て行った母親から出た言葉は、皮肉でも反対でもなく「最高じゃない」だった。
自分の好きなように生きてきた母親にとって、文也の〝売れない役者〟としての生き方は最高なのだ。
しかし、母親は人生すべてを自由に生きてきたかというと、そうではなかったように思う。
母親は夫・息子を置いて家を出ていく前、芸能オーディションの雑誌を見ている息子に対し、「あんたを大学に出すためにパートしているのに」みたいなこと言っていた。
(私はこの台詞に子どもも母親も嬉しくない台詞NO1と名付けた)
多分、母親はつい口から出てしまったこの台詞がトリガーで家出を決意したのではないだろうか。
つまり、母親は家出をすることで〝自分も周りに何を言われようが家族に恨まれようが好きに生きるから、あんたも好きに生きてみろ〟と言いたかったのではないだろうか。
〝私も思い切るからあんたも思い切って(役者を)やってみろ〟
と。
だとしたら、母親の行動にも最後の「最高じゃない」の台詞にも納得できる。
まぁ不倫して子どもを置いて出ていくというのは、大胆すぎるが(苦笑)
人生なんて選択の回数と同じくらい「たられば」を考える回数が多い。
40歳~50歳で不幸度がMAXになるという研究結果があるらしいが、「退行催眠」を使った文也の年齢がまさに48歳である。
だとしたら、人生の正念場は高校生の文也ではなく、48歳の文也の方だ。
48歳の文也は、「本当に不幸か? 」と自問自答すべきだった。
高校の頃夢見ていた役者には一応なっている。
文也の48歳は〝最高じゃない〟か。
【追記】
『追想ジャーニー』の映画鑑賞文の記事、Twitterにも共有したら、谷健二監督にRTしていただけた……いいねも。
嬉しい。
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