後白河法皇㉗
後白河法皇は、義経と謁見した。
(小柄じゃな)
目の前の白洲で、鎧直垂を着て平伏している若者を見て、後白河法皇は思った。
挙措が田舎じみていない。
(義仲とは違う)
義仲は全身が精気でできているような男だった。
しかし義経は動きはきびきびしているが、義仲のような覇気は感じない。
義経の脇に、中年の男が控えている。
梶原景時である。
「こたびはようやった、追って褒美を取らすぞ」
後白河法皇が2人に声をかけたが、
「院、恐れながら」
景時が声を挙げた。「我ら鎌倉殿の命にて、鎌倉殿のお赦しなく官職を頂くことを禁じられており申す」
「ほう」
後白河法皇は軽い驚きの声を挙げた。
(なんと)
別に珍しいことではない。
主君を持つ者は、主君が朝廷に奏上して官位をもらうのが通例になっている。
(しかし頼朝は、位階こそ従五位下だが、まだ官職はないぞ)
頼朝はかつて右兵衛佐だったが、平治の乱以降解官したままである。
もっとも慣例として、主君を持つ者に主君以上の官位を与えたりはしないし、また主君の奏上なしに家臣に官位を与えることはない。
ただ景時のように、露骨にそのようなことを口にする者もいないので、それが興ざめではあった。
義経は黙っている。
「九郎(義経)、大将としてのそちの働き見事であった」
という後白河法皇の言葉にも、
「ありがたきお言葉なれど、大将は蒲冠者(範頼)にござりまする。それにそれがしにはこれといった手柄はござりませぬ」
と、義経は答えるだけだった。
(ほう、謙虚な)
と思ったが、梶原景時に対して同様、少し興ざめした。官位をすぐに与えられないなら、言葉を褒美の代わりにしようと思ったのだが。しかし義経は、自分が宇治川の戦いでは本当に特筆すべき功績がなく、兵力差で勝利しただけという見解を持ち、人の言葉で見解が揺らぐということがなかった。
後白河法皇は、まだ義経の中にある天才を知らない。
(義経という者をどうするかは、これからじゃな)
謁見は終わった。
寿永3年(1184年)正月20日、義仲から解放された後白河法皇は早速、摂政松殿師家を解任して、朝廷の主導権を握った。
(思えば、政権を取り返したのは何度目であることか)
という感慨を、後白河法皇は持った。政権を奪われ、他の者を京に呼び寄せて政権を取り返す。
(無為じゃ)
後白河法皇、58歳。政治を行い、積み上げる成果というのはほとんどない。
(なくてもやらねばならぬ)
自分の生きた痕跡を残すために。あるいはその痕跡から、何かが生まれ花咲くこともあり得る。
(さて、これからどうするか)
方針は、決まっている。
しかし後白河法皇は公卿議定を開き、あえて沈黙した。
「神鏡剣璽の安全のため、使者を派遣すべきである」
という意見が、公卿議定では優勢だった。
もちろん、平家に対する対応についてである。
平家は、義仲や行家の敗北により、摂津福原(現神戸市)まで進出していた。
平家が連れて行った安徳天皇は、後鳥羽天皇が践祚した以上、実質廃位扱いでなければならない。
ところが、安徳天皇の在位は、治承4年(1180年)2月21日から、寿永4年(1185年)3月24日までで、寿永2年(1183年)8月20日に践祚した後鳥羽天皇と、安徳天皇の在位期間は重なっている。しかも元暦元年(1184年)7月28日に後鳥羽天皇が即位すると、日本に2人の天皇が並立して存在することが公にされてしまった。東西どちらの天皇も正統な帝である、というのが京都朝廷の見解になってしまった。
そうせざるを得ないのである。
平家が擁する安徳天皇は、三種の神器を所持している。
三種の神器を持っている天皇を廃位するのは、三種の神器の権威を朝廷自らが貶めることになる。
実質的な廃位である譲位の要求も、平家が安徳天皇を擁している状況では不可能である。
そこで、なんとか平家と交渉して、三種の神器を取り戻せないか、と公卿の多くは考え、そう主張しているのである。
(ばかな、そんな口先だけのことで)
さすがに後白河法皇は、こういう意見に気分が悪くなっている。政治的手段として上等でない、というところか。
相手が武力をもって、滅亡を免れるために幼帝を旗頭にして必死の抵抗を試みるのに、口先で三種の神器を返して、その後幼帝が廃位されて賊軍として討たれてくれる。
そんな風に相手を軽んじるのは思い上がりであり、自分達が何も失わずに生きていけると思うことこそ、真に現実を生きていない証であり、またそれにより足元をすくわれるかもしれないのである。
(2度も幽閉されて政権に返り咲いた、余に失礼であろう)
そう思って、後白河法皇は驚いた。
(余は、そんなことを思っていたのか?ならば余にとって清盛とは?義仲とは?)
清盛や義仲という敵が存在してこそ、後白河法皇が自身の存在を感じることができる。彼らはそういう存在なのだと、後白河法皇は気づいた。
(そうじゃ、相手が余の権威に屈し、騙されるべき相手であると思っているうちは、余は本当の生を生きていないのじゃ。清盛や義仲は余を武力で脅し、余は政権を失った。しかし彼らには誠の言葉があった。武力による脅しにこそ誠の言葉があるのじゃ。その気になれば殺せるというな。決して口先の嘘ではない。本気の言葉に敗れた余が相手にした敵を、口先で丸め込めると思うのは余に対する侮辱じゃ)
後白河法皇の意を受けているのは、藤原朝方、水無瀬親信、平親宗であった。
「偏(ひとえ)に征伐せらるべし」
という彼らは主張した。平家追討である。
安徳天皇もまた正統な天皇である以上、征伐対象は平家とするしかない。
安徳天皇については捕らえるのが一番だが、安徳天皇の確保は必ずしも最優先ではない。
三種の神器を奪還した後、朝廷によって廃位し、状況によっては平家もろとも討ち滅ぼす選択肢もあり得た。
(三種の神器を平家に奪われ、帝が東西に並立する状況が続けば、皇家の威信は地に落ちる。平家に融和的な姿勢を取る猶予などないのだ)
日和見な公家達にも、意見は言わせねばならない。
彼ら公家達は状況に流され、自身の安全を考える。
それが一見理性的な態度に見せて、裏に恐怖を含んだ発言となる。
(既に武家の支えなしには、朝廷を維持することはできぬ。我らが揺らげば、武家は益々図に乗るであろう)
後白河法皇は自らは発言せず、公家の意見に辛抱強く耳を傾けていた。
やがて、臆病な公家達も冷静になり、事態を的確に捕らえるようになった。
公家議定は一決した。
26日、「平家追討」の院宣発布。
29日、「義仲残党追討」の宣旨が発行された。平家と義仲残党の追討の発行元が違うのは、三種の神器を持たない後鳥羽天皇の宣旨では、安徳天皇を擁する平家に対し重きをなさないと考えたからであり、それでも後鳥羽天皇の存在感を示すため、義仲残党追討は後鳥羽天皇の宣旨という形にしたのである。頼朝には平家没官領500ヶ所が与えられた。
2月4日、鎌倉からの源氏の軍勢は、範頼を総大将として西に向かった。
範頼が56000余騎を率い、平家を正面から攻め、義経が10000余騎を率い、丹波路へと向かう。
平家の布陣は鉄壁だった。
なにしろ北から六甲山地が迫り、南は海である。
源氏勢は、東から平家を攻めるしかない。
そこを義経が「鵯越の逆落とし」をやったために、平家は壊滅的打撃を受けた。この歴史的事実は揺るがない。
しかし、細部を見ると多少の修正が必要な気がする。
私は、源範頼という人物がよくわからない。
従来なら愚将と切り捨てられかねない人物である。
先の義仲との戦いでは、尾張国墨俣の渡で他の御家人と先陣争いをして、頼朝に叱責されたという。
人物評価としても、「私の合戦を好み、太(はなは)だ穏便ならざるの・由仰さる」とされ、自らの功名を求め、全体を見ていないのではないかという感がある。大将としては不適かもしれない。
しかし対義仲戦では、強襲した義経と比べて範頼はゆっくりと進軍しており、義仲が今井兼平と合流してから北陸に逃げようとしたところを範頼軍が捕捉している。範頼軍がゆっくりと行軍したから、義仲はまだ時間があると油断して討たれたのであって、計算の上の行動である。しかし先陣争いをしたというのは、範頼が作戦を理解していなかった可能性はある。
もっとも、義仲が東山道を東に走ってきて範頼軍と鉢合わせになるとは想定していたわけではない。ただ範頼の動きが緩やかなら、義仲は慌てて北陸に逃げようとしないという読みはあっただろう。
そして次の対平家戦の一ノ谷の戦いでは、開戦の前日の2月6日、平家は福原で清盛の法要を営んでいた。そこに後白河法皇から源平は交戦しないようにという和平の使者が訪れたのである。
この和平の使者により、平家の気は緩んだだろう。そしてその翌日に「鵯越の逆落とし」が行われた……。
範頼が墨俣の渡で先陣争いをして頼朝に叱責されたのは、頼朝が対義仲戦の作戦の概要を知っていたからだろう。そして後白河法皇も、一ノ谷の戦いの作戦の概要を知っていた。
範頼については、愚将と判断できる要素はあるが、そもそもの実戦の経験の少なさから断定まではできない。弟の義経に支えられた面はあるが、その後も大過なくいくさを続けているところを見ると、凡将には違いないが愚将とは言い切れない。
今でも、軍事的には天才だが政治能力のない義経が、独断専行で勝利を重ねたというのが一般的な見解である。
しかし本当は、義経は作戦の概要を根回しして、頼朝や後白河法皇にも作戦を理解させたうえで実行しているのである。これが従来の説への、私の若干の修正である。
義経は作戦の根回しをして、実行に移す政治力を持っていた。もっともそれは、保身の感覚も備えていたことを意味しないのだが。