清和源氏の興亡⑦
ここに、清原貞衡という人物が登場する。
名前から見て清原氏で、清原武則の子あたりかと思うと間違えてしまう。
武則の娘婿、または武則の孫の真衡、さらに真衡の父、つまり武則の子である清原武貞の別名という説もある。
そして武則の娘婿だった場合、貞衡は岩城則道の子で、母は源頼義の娘徳姫だという。
これはちょっと信じられない。この徳姫についても、平正済室という説、清原成衡室説もある。
どういうことかを簡単に説明すると、清原氏は岩城氏になろうとしていたということである。それも取りあえずは、となるが。
この時代、土地を有して勢力を張る豪族にとって、自らがどの氏族に属するかということほど大事なことはなかった。
氏族に属するというのは、神々の血を引くことを意味する。そして神々の血を引いていないのは、法的には庶民と変わらないことを意味した。
庶民と変わらない、このことは庶民としての権利が認められるという意味ではない。
大和朝廷は豪族連合国家として3〜4世紀に誕生し、6世紀に中国に隋、唐という統一国家が生まれ、隋、唐から国を守るために中央集権国家になった。
しかし大和朝廷はそれまで、全国の良民を一元的に統治する習慣を持っていなかった。
分権社会を中央集権国家に変えるのに、歴史はさほどの難事でもなかったかのように記録している。しかしそんなはずはなく、泥縄でつなげていくような努力が、継続的に行われたに違いない。
そして民衆を一元的に支配したことのない朝廷は、民衆の権利については一応律令で定めても、規定の通りに運用されているかどうかなど、律令ができたばかりの頃の朝廷は顧みるゆとりもなかっただろう。実際平安時代初期にも、役人が不正に民衆を労役に従事させるなどで問題となり、朝廷で議論が行われている。
墾田永年私財法により土地所有が認められたといっても、その土地の権利保証を国家がしてくれるとは、庶民出の開墾地主達は思わなかった。だから彼ら新興階級は、従来の貴族に近づき、神々の血を引く系図に加えてもらって権利の維持を図った。
さらに彼ら新興階級の痛ましさは、自分の土地の名義を貴族や寺社のものとしたことである。名義だけを貴族、寺社のものとし、自分は下司という荘園の管理者となり、実質的な土地の所有者の立場を維持する。
しかし土地の名義を他人のものにするのは、土地を他人に巻き上げられる可能性がある。
だからこそこの新興階級、武士達は、哀れなほど忠実に主君である貴族や寺社に仕えた。系図は確かに貴族の端くれとして名前を加えてもらったが、何代か空欄の後に名前があったり、系図によって先祖の名前が違ったりして、貴族が気に入らなければ、いつでもその武士を系図から外せるようになっていた。
清原氏は、元は清少納言が出た清原氏のような、朝廷の清原氏に近づいて清原姓を賜わった、奥州の俘囚なのだろう。
それが、清原姓に有り難みを感じなくなった。時代は源氏か平氏が広く受け入れられている。源氏も平氏も武士団の棟梁であり、日頃から所領争いなどを抱えている武士達にとっては、頼り甲斐のある氏族だった。源氏の傘下にも平氏がいるように、武士団の傘下に入ることは必ずしも氏族を代えることを意味しなかったが、清原氏は氏族自体を代える必要を感じたのだろう。
しかし清原氏が氏族を代える相手に選んだのが岩城氏なのである。
岩城氏は海道平氏と言われているが、一応出自を桓武平氏としながらも、一方では岩城国造の子孫と称したりもしている。どうも岩城国造の子孫が正しいか、そもそも桓武平氏ではなかったのだろう。
こうなると、清原氏がなぜ岩城氏とひとつになろうとしたのかわからなくなる。
清原氏には、前九年の役の時藤原経清の遺児で、その母有加一乃末倍(ありかいちのまえ)が清原武則の子武貞に再嫁して、新たに清原一族となった清衡がいた。
清原氏の真の狙いは、この清衡を中心に一族を作り変えることにあった。つまり清原氏は、最終的に清衡の血にある秀郷流藤原氏になろうとしていたのである。
旧安倍氏が支配し、今や清原氏のものになった奥六郡。
清原氏の仙北三郡。そして岩城氏の奥州南部、これらを合わせれば、出羽、陸奥全土に及ぶ巨大な勢力圏ができる。
清原、岩城氏の合同は、この勢力圏作りを画したものだった。
後三年の役がなくても、奥州藤原氏の繁栄は必然だったのだろう。
奥州の俘囚は関東以西の武士と違い、その時に優勢な氏族の傘下に入ろうとせず、自らの旗頭、御輿とするべき貴種は自分達で見出し、育てた。
源頼俊は、そういう清原氏に対し融和的だった。
俘囚達にとって評判の悪かった頼義の河内源氏と違う方針を、大和源氏の頼俊は示す必要があると思っていた。
どうもこの後の流れを見ると、清原氏は俘囚の意志を尊重した頼俊に、頼俊が期待したような感謝は示さなかったようである。あくまで俘囚は自分達でやっていく気でいた。
頼俊としては、頑なな奥州人の心を溶かさない限り、俘囚が進んで傘下には入ってこないと思っていた。
清原貞衡は頼俊と共に津軽海峡まで遠征し、本州の北端までを朝廷の威令の及ぶ地にしたという。
しかし戦った相手が、武蔵国豊島郡(今の東京都)の住人平常家、伊豆国田方郡の藤原惟房、そして国司の印と正倉の鍵を盗んだ藤原基通で、皆河内源氏傘下の武士である。藤原基通はこの後下野国に逃げて源義家に捕縛される。
現地には原住民もいただろうが、河内源氏は原住民と手を組んで、朝廷の遠征軍を阻んでいたのである。
国家というのは常に一枚岩ではない。内紛もある。
敵国に通じる者も、歴史を通じて出てくる。しかしその場合、「裏切り者」は大抵しっかり認知される。
しかし延久蝦夷合戦のように、敵国に明らかに通じながら、そのことを特に糾弾されなかった例を、私は知らない。
以上の経緯から、遠征軍妨害の首謀者といえる義家は、少なくともこの件で、その繁栄に陰りを見せてはいない。
奥州を巡っては、それについての独特の構造がある。つまり日本全国で、奥州を搾取の対象とする動きと、それに対抗して奥州の自立制を高めようとする動きである。
頼俊は、奥州の自立化に全面協力しようとした。俘囚を搾取しても反発するだけなので、奥州の自立制をまず認めたうえで、頼俊の徳を慕って奥州人が頼俊の傘下に入るのを期待したのだろう。しかし奥州人が頼俊に悪意を持たないまでも、頼俊の傘下に入るとは限らず、頼俊の行為は見返りを求めないものになるのはやむを得なかった。
延久2年(1070年)8月、朝廷は頼俊に都への召喚を命じたが、頼俊は帰らなかった。
頼俊は奥州で粘り、12月26日には大戦果を挙げたと朝廷に報告した。しかし朝廷は、頼俊の功を認めなかった。
翌延久3年(1071年)5月5日、朝廷は頼俊を現地に留め置いたまま謹慎を命じた。
戦後、清原貞衡は従五位下鎮守府将軍に任じられた。しかし頼俊には沙汰はなかった。頼俊の功は認められなかったのである。
坂上田村麻呂以来の、奥州に対する朝廷の態度が、反転した形でここに見ることができる。
坂上田村麻呂は、降伏した蝦夷の族長阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)を京に連れていった。
田村麻呂は2人を助命して現地を治めさせるのが得策だと主張したが、朝廷は2人を奥地の賊首として斬首に処した。
前九年の役では、いかなる手段を使っても安倍氏を反乱に踏み切らせようとする源頼義が、どれほど鎮圧に苦労しても朝廷は頼義に奥六郡を一任し、安倍氏を滅ぼすと朝廷は頼義に篤く報いた。
朝廷は清原氏には恩賞を与えたが、それは清原氏の功を朝廷が否定できなかったからにすぎなかった。
平安時代を通じて、朝廷は武力を持たないようになり、また武力を遠ざけること異常なほどだったが、朝廷、天皇、貴族に「武器」がなかったのではない。
天皇や貴族には差別という「武器」があった。この「武器」があったから、貴族達は武力を持たずとも平然としていられた。
貴族は差別が「武器」だったから、武力を持つ武士を家畜の如く使い、その功に薄く報い、自らを顧みることがなかった。
この「武器」で、この時代朝廷は関東まで支配した。しかし源氏や平氏という賜姓皇族や秀郷流藤原氏のような元貴族は、差別するにも限度があり、朝廷は彼らに一定の地位を与えた。武士は源氏や平氏の傘下に入り武士団を形成した。
差別された武士も他の差別の糸口を見つけ、ヒエラルキー社会を形成していった。このヒエラルキー社会の最底辺を形成するのが、現在も全国に点在する被差別部落を除けば、出羽と陸奥の者達だった。
しかし出羽と陸奥、奥羽は、原則差別に屈しなかった。彼ら奥羽の民もまた、貴種を奉戴せねばならないのは日本の他の地域と変わらなかったが、それでも彼らは、自分達により近い者を御輿とし、源氏や平氏が隆盛だからとやすやすとは従わなかった。源頼俊は、この現状に限界を感じ、俘囚達を人として認め、彼らを優遇しようと考えた。
その頼俊の態度を、朝廷が認めなかった。そのため河内源氏が原住民と共に頼俊の軍に抵抗しても咎めることがなかった。
頼俊は、国司の印と正倉の鍵を奪われ、自らは軍備を調達できなかった可能性が高い。しかし清原氏の参戦により、征服事業を推進できた。そして頼俊の功績は闇に葬られた。
そしてこの時は頼俊の融和路線を妨害した源義家だったが、この後、後三年の役において、義家は頼俊と同じ路線を行くのである。
延久4年(1072年)、後三条天皇は皇位を第1皇子の貞仁親王に譲った。後三条天皇は院政を開こうと図って譲位したと言われているが、翌年には崩御してしまった。
そして貞仁親王が白河天皇となり、譲位して実質院政の一番手となる。この白河天皇を中心に、平安後期の政治が動いていくことになる。
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