清和源氏の興亡③
今為時は、安倍富忠を調略するように、源頼義に進言したのである。
安倍富忠は、安倍の姓を名乗っているが、頼時の安倍氏との関係は不明である。
おそらく、安倍氏の勢力が北方に伸びたことで支配下に組み込まれた在地の族長で、安倍姓もその時に安倍氏から下賜されたのだろう。
安倍富忠は、下北半島に勢力を持つ豪族だった。
今為時は、安倍氏の奥六郡を、北は安倍富忠ら津軽の俘囚と、南からは源氏の、2方面から挟み撃ちにするように画策したのである。
為時の献策を頼義は喜び、早速為時を使者として派遣した。
安倍富忠は、為時の「甘説」に応じた。
「甘説」とは何であるかを、示す資料はない。
本領安堵や、頼時の安倍氏の後継などが約束されたとする見解が主流である。
富忠は源氏に寝返った。富忠と共に、津軽の俘囚達も頼義についた。
富忠の寝返りを聞いた頼時は驚き、富忠を説得して味方に引き戻さなければならないと思った。
頼時は津軽に向かったが、仁土呂志(岩手県二戸市似鳥と推定される)で富忠の兵による奇襲を受けた。
頼時は流れ矢を受け重症を負い、本拠の衣川に向けて引き返した。しかし衣川まで行くことができず、鳥海柵(岩手県胆沢郡金ケ崎町)に入り、そこで死んだ。時に天喜5年(1057年)7月。
ところで、頼義が安倍富忠に約束した「甘説」は履行されたのだろうか?
「甘説」とあるだけで内容も記されておらず、約束を履行したという記述もなく、富忠のその後の消息も不明である。また安倍富忠を調略した今為時の消息もわからないのである。
それに「甘説」という言い方、報酬を約束するのに「甘説」という言い方があるだろうか。
「世の中はそんなに甘くないんだよ」という本音が垣間見えるようである。
どうも、「甘説」は反故にしたのではないかと思われる。
坂東武士は公家に蔑まれていたが、源氏は坂東武士を大切に扱い、坂東武士の信望を得てきた。
しかし、奥州では源氏も坂東武士も、俘囚を対等に扱う気はなかったようである。対等でないどころか、利用した挙げ句、約束を守らなくてもいい相手だと思っていたようである。
頼時が死んで、嫡子の安倍貞任が安倍氏を相続した。
貞任は背丈は6勺を越え、腰回りは7尺4寸の、容貌魁偉の肥満体だった。
朝廷は頼義を後援するため、源斉頼(清和源氏満政流)を出羽守に任じ下向させたが、斉頼は頼義に非協力的で、軍を派遣しなかった。
11月、頼義は安倍氏を討つべく多賀城を出撃した。この時の国府軍は、国衙兵2000に、頼義傘下の源氏の武者500名である。
なおこの出陣で、頼義の嫡子八幡太郎義家が初陣を飾っている。義家この時19歳。
しかし激しい雪により、行軍は難渋した。また食糧など物資も不足していた。
国府軍と安倍氏の郡は、黄海(現一関市藤沢町黄海)で戦った。
安倍軍は4000。
この戦いで、義家は「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。白刀を冒し、重圍(重囲)を突き、賊の左右に出でて、大鏃の箭を以て、頻りに賊の師を射る。矢空しく発たず、中(あ)たる所必ず斃れぬ。雷の如く奔り、風の如く飛び、神武命世なり」と、その武勇を徹底的に評価されている。
しかし実際には、義家はそこまで武勇を発揮する機会はなかったのではないだろうか。
戦いは安倍軍が圧勝し、国府軍は数百の戦死者を出したのである。
兵を死なせただけではなく、頼義は有力な家人を多く失った。
頼義の家人に、藤原景季という者がいる。
先祖は源頼光や坂上田村麻呂、藤原保昌と並ぶ、中世の伝説的な武人四人組の一人、藤原利仁である。
剣と弓に優れ、義家の武芸指南役も務め、関白太政大臣藤原頼通始め摂関家との交流もあった。華やかな武将だったのである。
景季は、国府軍が敗走する中、踏みとどまって奮戦し、最期に貞任によって討たれた。20余歳の生涯だった。
また佐伯経範という者がいた。
経範は60歳になり、頼義に仕えて30年になる。
経範は敵の包囲から脱出したが、頼義の行方がわからない。
「頼義を見た」と証言する兵はいたが、「寡兵で敵に包囲されていたので、脱出はとても叶わない」とその時の状況を語った。しかしその兵士も、頼義の討死を見た訳ではなかった。
それで経範は頼義が戦死したと思い、それを嘆き、頼義と命運を共にして討死しようと、敵軍の中にとって返した。
経範の従者達も経範に倣い、敵陣に突入した。
経範主従は10余人の敵を討ったが、やがて力尽き、枕を並べて討死した。
しかし経範は知らなかったが、頼義は義家と共に、包囲を脱出していた。義家も含め、わずか6騎の供回りを率いるのみの脱出行だった。
この戦いの後、しばらくの間安倍氏の力は国府を凌ぎ、奥六郡で国府に従う者はなかった。
頼義は勢力の回復を待たなければならなかった。
ところが康平2年(1059年)頃には、頼義は安倍氏の勢力に押され、衣川以南、つまり安倍氏の勢力圏外でも、国府の命令である赤符に服さず、藤原経清の徴税の札の白符に従うようになった。
奥州での、頼義の源氏が人気がないとしか言いようがない。
頼義は関東、東海、畿内の武士に働きかけて、兵力の増強に努めたが、安倍氏の勢力は衰えを見せない。
康平5年(1062年)、任期の切れた頼義の代わりに高階経重が着任したが、郡司らは頼義に従い、経重に従わなかった。
「何の為すすべもなく(『陸奥話記』)」経重は帰洛し、朝廷は経重を陸奥守から解任したが、さらに経重の後任候補も陸奥守を辞退し、朝廷はやむなく頼義を3度目の陸奥守に任じた。
しかし頼義も、今のままでは現状を打開できないのはわかっていた。
そこで、頼義は出羽の清原氏に協力を依頼した。
清原氏は、陸奥国の隣の出羽国の、仙北三郡を支配する俘囚である。
頼義は清原氏の当主の清原光頼に「奇珍の贈物」をして、光頼の了解を取りつけたという。
また、頼義は朝廷の命令を盾に、参陣を強く要請したともいわれている。
ところがそうではなく、頼義が清原氏に臣下の礼を取って、清原氏に出兵させたという話がある。
『奥州後三年記』に、源義家が清原武衡の乳母の千任に「なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をささげて故清将軍(清原武則)をかたらひたてまつれり。ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり」と言われ、義家が激怒したとある。
あり得ないことではない。
これまで、戦況は一貫して頼義に不利だった。
そして前九年の役に感じるのは、この戦役に対する頼義の執念である。
高階経重が着到した時、郡司が頼義に従い、経重に従わなかったが、衣川以南で国府の赤符に服さず、経清の白符に服すようになっていたのに、頼義に郡司から信望があったとは考えにくい。自分の配下を使って、郡司を脅していた可能性が高い。
また奥州の俘囚も、他の動静に対する反応が少ない。
戦国時代のような群雄割拠だが、割拠しているだけで合従連衡が少ない。この時代の奥州の特徴かもしれない。
例外が安倍富忠だが、富忠も安倍頼時を奇襲した時以外は目立った動きを見せていない。
奥州の俘囚は、朝廷に対する非協力な姿勢から、国府と他勢力の争いに不介入路線を取ってしまうのだろう。この姿勢は奥州藤原氏の時代になっても残り、源平の戦いの最中でも、奥州は他の地域に介入せず、独立を維持することになる。
話が逸れたが、要するに清原氏が頼義に味方する理由は少ないのである。頼義が安倍富忠に「甘説」を履行していなかったとしたら、清原氏が「奇珍の贈物」程度で動くはずがないし、また出羽守の源斉頼も動かないのに、「朝廷の命令」でも簡単には動かないだろう。
頼義はこの時、清原氏に名簿を差し出し、臣下の礼を取った可能性が高い。
清原光頼は、自らは動かず、弟の清原武則を総大将として、10000の兵をつけて頼義に出仕させた。
頼義の国府軍は3000で、合わせて13000。
現在、宮城県の栗原市に屯岡八幡宮がある。
坂上田村麻呂の創建した神社で、ここが清原軍と国府軍の集結場所となった。
8月16日、屯岡八幡宮に頼義の国府軍・清原氏の連合軍が集結した。
国府・清原連合軍の陣立ては次の通り。
第一陣 清原武貞(武則の子)
第二陣 橘貞頼(武則の甥)
第三陣 吉彦秀武(きみこのひでたけ、武則の甥で娘婿)
第四陣 橘頼貞(貞頼の弟)
第五陣 清原武則
第六陣 吉美候武忠(吉彦秀武の弟、吉美候は吉彦と同じ)
第七陣 清原武道
大将は全員清原氏の係累である。
頼義は総大将として第五陣にいたが、これはほとんど清原氏の軍と言っていいだろう。
連合軍は、翌17日に小松柵に到達しこれを攻めた。
小松柵は、貞任の叔父の安倍良照(あべのりょうしょう)と、貞任の弟の宗任が守っていた。
頼義は、布陣をどうしようか考えていたところ、柵の中から安倍軍が打って出てきた。
「攻撃は明日始めるつもりだったが、既に戦いは始まってしまった。しかしいくさは好機が来たら始めるものだ。今がまさにその時だ」
と、頼義は大音声で叫んだ。