後白河法皇⑨
白河法皇は様々な陰謀により、敵対勢力になる恐れのある勢力を潰すことで皇室を維持した。
その陰謀の最大のものが、源義家の系統の源氏を潰したことだろう。
源氏は源頼信の代に関東を支配し、源頼義の代に奥州に進出した。
関東と奥州を合わせれば、その勢力は後の源頼朝の勢力に匹敵するものとなり、この最大の武力集団に対抗できる存在はなくなる。
だから白河法皇は、後三年の役の源義家の活躍をなんとしてでも封じようとした。
清原氏の内紛が始まると、義家は清原清衡に味方したが、朝廷は内紛を清原氏の私戦とし、「合戦停止」の官使を派遣した。
「合戦停止」といっても、清衡の異父弟の家衡は義家の調停を反古にして清衡の館を襲撃し、清衡の妻子を皆殺しにしていた。当時陸奥守だった義家には、秩序の維持のため兵を動かす必要があった。
朝廷は、京にいる義家の係累が奥州に下向して義家に加勢しないようにした。義家の次弟の加茂二郎義綱を派遣しないようにし、義家の三弟の新羅三郎義光が義家に加勢するために無断で陸奥に下向すると、朝廷は義光の官職を剥奪した。
戦後、朝廷は義家の活躍に対し褒美も与えず、戦費の支払いも拒否した。さらに朝廷は義家を陸奥守から解任した。
また奥州は当時の日本の唯一の金の産地だったが、義家は役の最中、定められた金の貢納を怠り、それを戦費に当てていた。
朝廷はそれを咎め、義家はそのため長い間官職に就くことができなかった。
奥州は清原清衡改め藤原清衡の自立した地となり、義家は配下に対し私財を投じて恩賞を与えざるを得なかった。
白河法皇の源氏に対する陰謀はこれだけに留まらない。
義家の嫡男の義親は、対馬守として九州で略奪や暴行を働いた。
朝廷は義親を隠岐国に配流にしたが、義親は隠岐に行かず、出雲国で目代(国司の代理)を殺害し、官物を略取した。義家が義親追討に赴かねばならない事態となったが、幸いにして義家は嘉承元年(1106年)に死去し、子を討つ不幸に遇わずに済んだ。
嘉承2年(1107年)、朝廷は清盛の祖父の平正盛を追討使として、義親を討たせた。
義親の首は京で梟首となったが、その後20年以上に渡り、各地で「義親」を名乗る者が現れたりした。朝廷はその度に「義親」を名乗る者を捕らえたり殺したりした。
この「義親」が多数現れるのもまた、白河法皇の陰謀なのである。
義親は「悪対馬守」と呼ばれ、義家と並ぶほどの豪の者だった。その「義親」が梟首となった後も何度も現れることで、「源氏は怖い」と世間に印象づけた。「義親」が20年以上何度も現れたというが、それならば白河法皇の崩御(大治4年、1129年)を境に「義親」は現れなくなったことになる。
もっともこのため、正盛は義親を討伐したかどうかは疑われ、正盛は生前はさほど出世しなかった。
その分、正盛の子の忠盛が出世した。
白河法皇の平家への優遇はこれに留まらなかった。
忠盛には清盛という長子がいたが、正室の子ではなかった。
白河法皇はこれを奇禍とし、清盛を12歳で左兵衛佐に叙任するという優遇をした。そして清盛が「白河法皇の落胤」という噂を流した。
この噂と白河法皇の引き立てにより、清盛は白河法皇の寵妃の祇園女御が忠盛に下賜されて生まれたという伝説が出来上がった。
白河法皇がこのように平氏を引き立てたのは、平氏を源氏の対抗勢力とするためである。
白河法皇の源氏に対する追い討ちはまだ続く。
義家の死後、家督は義家の三男の義忠が次いだが、家督を継いで3年目の天仁2年(1109年)、義忠は自らの郎党に暗殺される。
最初は美濃源氏の源重実が容疑者とされたが、後に義家の弟義綱の三男源義明と、その乳母夫の藤原季方に嫌疑がかかった。
義明と季方は検非違使の源重時に追捕され、殺害されている。
義明の死に憤慨した義綱は東国に向けて出奔し、朝廷は義親の子の為義(義家の子とする説もある)に追捕させた。義綱は出家し降伏した。
こうして、白河法皇の手により源氏は分断されていった。
朝廷は遠隔地に対しては、現地の官僚、特に武官には大幅な裁量を与え、紛争が起こった際には早期に対処できるように支援しなければならない。
朝廷の軍隊は平安初期に事実上の解体を行っており、それから間もなくして発生した武士団という私兵集団が軍事の役割を担っていた。しかし私兵集団であるだけに、現地で紛争が起こるということも必然的に起こるのであり、朝廷が直接軍事を担わない以上、義家の源氏のような集団が紛争に介入して勢力を拡大するのもまた必然的な成り行きだった。
白河法皇の策略は、そのような治安維持に対して何の方向も示さないものだった。
白河法皇の態度は、平安貴族に一貫したもので、民を省みない、退廃的で陰湿で、毒々しく艶めいたものだった。
後白河上皇は、この白河法皇になりたかったのである。
白河法皇同様、後白河上皇はあるべき国の理想像というものを持っていなかった。しかしそれだけに破滅的なものを感じており、特に後白河上皇は天皇家の統治する世の中はじきに終わると 見ていた。それでも後白河上皇は、その政治スタンスが破滅的であるほど、魅力を感じていたのである。
平安時代に栄えた信仰は3つある。
ひとつは末法思想を繁栄した浄土信仰。
もうひとつは仏陀の死後56億七千万年後にこの世に下生するという弥勒信仰。
そしてその千の手であまねく人々を救うという千手観音信仰である。
後白河上皇は、千手観音を篤く信仰していた。
だからこそ後白河上皇は、熊野本宮大社第一殿の本地仏が千手観音であるから、しきりに熊野参詣を行ったのである。
ある日、清盛が後白河上皇の下に伺候していた。
「のう右衛門督(清盛)、この法住寺殿にも観音堂が欲しいと思うが」
と言った。言葉は何気ないが、寄進の無心である。
観音堂といっても、後白河上皇の住まうこの法住寺殿に作るとなれば、並大抵の費用では済まない。
しかし清盛は勢い込んで、
「よくぞおっしゃってくださりました。この右衛門督身命を賭して主上の御心に叶う観音堂を建立してみせましょう」
と言った。
「おおやってくれるか、嬉しいぞ。してどのようにする?」
と清盛に尋ねた。これも清盛に対する吹っかけである。
「左様、鳥羽院は三十三間堂を立てられましたな。ならば三十三間堂と同じ千体の千手観音像を安置した観音堂はいかがでこざりましょうか」
「何?千体の?」
後白河上皇は軽い衝撃を受けた。
ここでいう三十三間堂とは、現在の三十三間堂ではない。
鳥羽法皇の三十三間堂は、洛北の白河に建てたもので、文治地震(1185年)によって倒壊したものである。千体の観音像も、千手観音でなく聖観音である。この三十三間堂も、清盛の父の忠盛の寄進によって造営された。
現在三十三間堂と言われるものは、この時清盛の寄進により後白河上皇が建てたもので、正式には蓮華王院という。
清盛は知行する備前国からの収益を傾けて、観音堂の建設に邁進した。
長寛4年、それは完成した。
「おおっ!これは!」
堂の中を見た後白河上皇は、さすがに驚いた。
中にあるのは、金色に輝く1000体の千手観音像。
三十三間堂は、現在その堂は古錆びているが、建立当初外装は朱塗りで、内装も極彩色に彩られていたという。
また当時、蓮華王院は法住寺とは独立した境内を持ち、五重塔もあったという。
(仏国土じゃ、まさに仏国土じゃ……)
後白河上皇は、危うく意識が宙に飛びそうになり、足元がふらついた。
後白河上皇は実権はなくとも、この日本の帝王である。父の建てたのと同じ千体の観音像なら、決してその美しさに呑まれた訳ではない。
ただ、千体の千手観音は、後白河上皇の宗教感覚を激しく刺激した。
そして直感が働いた。
(ーー清盛は仏国土をこの地上にもたらそうというのか?)
と、後白河上皇は思った。
清盛は近く。厳島神社に新たな社殿を造営しようとしているという。
(どのような社殿を作るつもりじゃ?それによって清盛がどのような国作りをしようとしておるのかがわかるであろう。余も見てみたいものじゃ)
と思ったが、熊野に34回詣でた後白河上皇でも、安芸(広島県)まで足を運ぶ訳にはいかない。
「お気に召されましたか?」
清盛が平伏して述べた。
後白河上皇ははっとした。
「うむ、右衛門督、良い出来じゃ、でかした」
と相好を崩して言ったが、内心は少々憮然としていた。
(余にはないものが、清盛にはある)
そのことへの嫉妬である。
国家構想というものは、藤原頼長も信西も提示しているが、後白河上皇はこの二人に感化されるところが薄かった。どちらも危ない火遊びをしているという風にばかり感じていた。
しかし、最大の武士団の棟梁である清盛からは、頼長や信西のような危なっかししさは感じなかった。
(危うくない、そうーー清盛が人臣の頂点に立てば)
つまり政権を握ればである。今の清盛は、まだまだ権力の中枢からは程遠い。
後白河上皇は、蓮華王院の落慶供養に二条天皇の行幸を望んだが、二条天皇は関心を示さず、落慶供養にも現れなかった。
「ヤヤ、ナンノニクサニ」
と、後白河上皇は言ったという。
しかし、二条天皇が父を嫌ってこのような仕打ちをしているだけではないことは、後白河上皇はわかっていた。
清盛を重用すれば、清盛に巨大な権力を与えてしまう。
武士の清盛にである。清盛に権力の中枢を握らせたら、朝廷がその権力を取り上げるのは至難だろう。
(帝にとっては、余はふがいない父に見えるやもしれぬな)
と後白河上皇は思ったが、しかしこの先の道筋も見えてきた。
(帝は清盛とは相容れぬ。余だけが清盛と共に歩むことができる)