後白河法皇㉚
(ふむ……)
後白河法皇は考えた。(これで重衡が、義経に対抗するのは自分しかおらぬと思うておるのはわかった。また三種の神器が戻るなら、試してみる価値はあるであろうな)
「平家は屋島におるのだな?」後白河法皇は尋ねた。
「は、左様で」
「康信よ」
後白河法皇は命じた。「交渉に行かせるがよい。ただし重衡の郎党をじゃ」
「郎党を?」
こちらから重衡の価値を、平家に対し高く見せる必要はない。
「重衡が交渉せよと申すから話したまで。当方は重衡にそこまでの価値ありとは見ておらぬ」
と言外に示すため、重衡の郎党に交渉内容を述べさせるのである。
早速、重衡の郎党は使者として屋島に向かった。しかし平家の総帥の宗盛は拒絶した。拒絶するだけでなく、
「6日に和平交渉を行うから、合戦をしてはならないと院宣にあった。それなのに源氏の不意打ちがあった」
と、不平を述べている。
(前内大臣のこだわることよ)
後白河法皇は鼻白む思いであった。しかしこれで三種の神器は戻ってこなくなった。
(しばらく膠着状態じゃな)
と思っていたところが、
「畿内近国からの軍事動員」
「東山、東海、北陸道諸国への、(頼朝派の公家や頼朝傘下の御家人の)国司補任」
のふたつを、鎌倉の源頼朝が要請してきたのである。
2月25日のことである。
(どうしたのじゃ頼朝は、おかしくなったのか?)
連年に及ぶ飢饉で、京は今も飢えているのである。
それに義仲の狼藉、宇治川、一の谷の戦いと、京とその近辺の疲弊は限界に達している。
(これ以上のいくさなど無理じゃ。それに加えて東山、東海、北陸諸国の国司補任じゃと?ばかな。たった一度の大勝で、それほどの功績であるものか)
後白河法皇は当然、頼朝の要求を拒否した。
それだけではない。
畿内とその近国では、頼朝の威を借りた武士による狼藉が頻発していた。
後白河法皇は、武士の狼藉と兵糧米徴収の停止の宣旨を後鳥羽天皇の宣旨として出させた。幼帝かつ安徳天皇の対立天皇である後鳥羽天皇の、権威を少しでも高めるためだった。
「義仲にも、このようにしてやるべきだったかのう?」
後白河法皇は、今や後白河法皇の寵妃となった丹後局に尋ねた。
武士の狼藉停止、兵糧米徴収の停止を(後鳥羽天皇に)出させて、後白河法皇は義仲のことを思ったのである。
(余は義仲を遠ざけるために、義仲に平家追討の院宣を与えた。しかし当時も今と同じく京は飢えており、また平家の本営も屋島にあった。
飢饉が収まるまで本格的な平家追討は控え、山陽道を登ってくる平家のみへの対処に絞り、できる限り武士を郷里に帰らせ、京に武士が集まらないようにする。
(それだけで、義仲との対立は回避できたのではないか?)
そんな風に、丹後局に話して聞かせた。
「おや、院のお優しいこと、あの義仲に情けをかけるべきであったと思し召されるか」
と、丹後局は沁み入るような笑顔を見せた。
元平業房の妻で、業房との間に数人の子がいる丹後局は、老境にさしかかった後白河法皇には気の合う相手だった。
「うむ、まあな」
後白河法皇は丹後局に合わせたが、事はそう簡単ではない。
新しい武士の棟梁が台頭するたび、既成の秩序にひびが入り、より強力な武士の勢力が現れるのである。
(ならば、頼朝でなく義仲でも良かったのではないか?少なくとも義仲が少しでも長く京にいれるように計らうのは意味のあることではなかったろうか?)
そのような内容を丹後局に話した。
「院のご叡慮の深いこと。御仏の教えを聞いておるようでござりまする」丹後局は笑って答えた。
「別に御仏の教えなどではない」後白河法皇は、少し拗ねた。
「そのように仰ることではござりませぬ。都の者は皆、義仲を田舎侍と申しておったではござりませぬか。その義仲を田舎者扱いせずに、むしろ都で生きる道を与えれば天下も穏やかになるとは、御仏の教えもこのようであったのかと思われるお話ではございませぬか」
丹後局の言葉に、後白河法皇はまんざらでもない気持ちになった。
(そうか、余の知恵は御仏の言葉と同じか)
後白河法皇は、頼朝が無理をして平家追討のための動員を要請した理由を考えてみた。
(一の谷では大戦果を上げた。その勢いで平家を一気に追討したかったのはわからぬでもない。しかしこの飢饉でこれ以上の軍事作戦は無理じゃ。それがわからぬ頼朝でもあるまい。ならば戦果を稼ぐために、とりあえず言ってみたというところか?)
兵站の面では厳しいが、義経という天才がいれば、短期決戦で戦乱を収拾するのも不可能ではないだろう。
(それに国司の補任の要請は?今までにそのような要請をしたことはなかったぞ)
頼朝シンパの国司補任どころか、頼朝自身が未だに無官である。
既に頼朝は、寿永二年十月宣旨により、東海、東山の支配権を得ている。
(そのうえ国司補任までしてやることはない)
と、後白河法皇も思うし、それに少し、頼朝らしくない気がする。
頼朝は公的な官職よりも実質的な支配権を手に入れるのに、今まで執着してきた。
そのため、朝廷は頼朝の勢力の上部構造でありながら、徐々に権力の実体を失いつつある。
(軍事動員が断られると見越して、頼朝が自らの意図を晦ますためにあえて望んでいないことをふっかけてきたとすれば?)
29日、義経の西国下向が延引となった。
義経は京で治安維持にあたり、梶原景時、畠山重忠は播磨、備前、美作、備中、備後の守護に任ぜられた。
範頼は鎌倉へ引き上げた。
頼朝が当面、大規模な軍事作戦をしないのは明らかである。
景時と重忠が山陽に派遣されたのは、大軍を動員しないまでも、山陽の勢力を平家から源氏に塗り替えるためだろう。
ならば景時と重忠が義経の指揮下にあるかといえばそんなことはなく、あくまで2人は頼朝の命令で動いているようである。
それでも義経が京に残されたのは、次の軍事作戦の時には、範頼よりも義経が重要ということを意味するのではないか?
(そして頼朝は、できればそのことを余に知られたくない。しかしそれならば、範頼を京に残し義経を鎌倉に戻すのではないか?)
もっとも範頼は、総大将なのに墨俣川で先陣争いをしたことで、頼朝から謹慎を命じられて鎌倉に戻ったのである。範頼の失点が大きい以上、義経に京を任せるのは妥当であるといえる。しかし、
(ならば、なぜ一の谷で義経を総大将にしなかったのか?)
という疑問が湧いてくる。
その場合、このように考えればよい。義経が総大将として最も適任であると知られることは、最も望ましくないことだったからである。
勇猛でも一騎討ちを好み、しばしば個人の武勇を戦略、戦術より上に見る武士達にとって、義経の存在は興を冷ますものだった。
頼朝にすれば、全ての合戦は義経の戦術でなく、武士の武勇によって勝利した、と思ってもらえるのがベストなのである。
それでも讃岐の屋島に本営を置く平家を相手に、範頼を京に置いて義経を戻すのは不安である。そこで墨俣川での先陣争いという、時効に等しい理由で範頼を処罰し、「他に人がいない」状態で義経を京に駐屯させた。
それでも義経起用で、短期決戦により平家と勝負を決せるならそれが一番良かったが、それができない場合に備え、諸国への国司補任の要請で、頼朝は後白河法皇に対し、自分の意図を晦ましたかった。
(頼朝が義経を買っていることを余が知れば、余が義経を利用できるからじゃ。ならばこちらは、気づいていることを隠さなければならない)
頼朝の勢力は、益々広がっている。
景時、重忠の他に、伊賀に大内惟義、伊勢に大井実春、山内首藤経俊、紀伊に豊島有恒と、坂東の武将が配置されていった。
(こちらに頼朝への好意しかないことを、頼朝に伝えねば)
「もし頼朝が上洛しないのなら、東国へ臨幸する」
と、後白河法皇は発言した。
(もうじき除目じゃな)
後白河法皇は、平将門討伐の先例に倣うことを考えた。
将門を討った藤原秀郷は、その功により正四位下に越階されている。
また将門の乱の追討使だった藤原忠文の先例に倣い、「征夷将軍」に任じるべきという意見もあった。
しかし「征夷将軍」に任じるには、頼朝が上洛し節刀を授けねばならない。
また軍監や軍曹の人事も必要である。
そこで鎌倉に使者を送り、頼朝の意向を尋ねた。
「過分な望みはなく、全ては朝廷の意向に従いたい」
と、頼朝は述べただけだった。
(その欲の無さが怖い。だが頼朝よ、そなたの目論見はわかっておるぞ)
3月27日の除目では、頼朝を正五位下から正四位下に引き上げただけだった。
6月になると、平家の知行国だった三河、駿河、武蔵の3国を頼朝の知行国とした。
頼朝としては珍しいことだが、頼朝は三河守に弟の範頼を、駿河守に源頼政の子の広綱を、武蔵守に平賀義信を任じた。清和源氏の大厚遇である。
頼朝が、挙兵以来の頼朝のみが源氏の中で優越する方針をここで転換したのは理由がある。親鎌倉派の九条兼実を摂政にするためだった。
そのため、頼朝は兼実シンパを結成する必要があった。シンパ作りで最も重視したのは、平頼盛だった。
平頼盛は清盛の弟で、頼朝の恩人の池禅尼の子である。
頼盛は後白河法皇やその姉の八条院とつながりを持っている。
(兼実を摂政にするために、頼朝は骨を折らねばならぬ。しかしその代わりに、何を代償にするであろうの?)
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