清和源氏の興亡①

長元元年(1028年)、平忠常の乱が起こった。
平忠常は、新皇になったことで有名な、平将門の近い親類である。
将門の父が良将で、良将の弟に良文がいる。良文の子が忠頼、忠頼の子が忠常である。
この年の6月、忠常は安房国衙を襲撃し、安房守平維忠を焼き殺した。
平維忠は、仁明平氏、つまり仁明天皇の子孫の平氏らしいというわずかな情報が、かすかに伝わっている低度の、つまらない下級貴族である。
名前から見て、安房国の国司だったようだが、この時代によくある、受領と在地領主の争いにより、忠常は維忠を殺したらしい。
この後、忠常は上総の国衙を占拠した。
朝廷は平直方を追討使として派遣する。
平直方は、伊勢平氏である。
藤原秀郷と共に将門を討った平貞盛を祖先に持ち、後に平氏政権を築く平清盛の系統にも近い。
一方、忠常は上総、下総、安房の三国の兵を率いて、頑強に抵抗する。
忠常の軍は士気上がり、容易に攻めることができない。
直方は、持久戦に持ち込むことにした。
持久戦ということは、陣地防衛をして、忠常軍を釘づけにしたのだろう。
乱は長期に及び、2年かかったが、決着がつかない。
業を煮やした朝廷は、直方を更迭し、源頼信を甲斐守とし、忠常の追討使として派遣した。
すると、忠常はあっさりと降伏した。長元4年(1031年)のことである。
『今昔物語集』には、忠常が頼信の家人だったため降伏したという。
しかし、そんなことはないだろう。
頼信は清和源氏二代目の源満仲の三男で、頼信の祖父は源経基である。
経基は将門の乱の時、武藏介として将門と戦い、敗れて京に逃げ帰った。
その後将門の追討使として、藤原忠文の副将となり、関東へと下向するが、将門が討たれたと知り帰京。
さらにその後、将門と同時期に乱を起こした藤原純友の追討使となるが、純友もまた小野好古に討たれ、経基は多少の功を立てただけだった。
頼信の父の満仲は「武士のはじめ」として有名で、源氏武士団を本格的に形成した人物だが、本人は山賊や盗賊などと戦った経歴がある低度である。
それでも摂津や河内に勢力を持つ有力な武士団だが、新興の源氏が関東の武士に勝てるほど力を持っていたとは思えない。
頼信の兄の頼光は、大江山の酒呑童子退治で有名だが、おとぎ話はともかく、史実として反乱を討伐するような大功を立ててはいない。
新興の勢力が急速に力をつける場合、必ず裏がある。
1028年というのは、「一家三立后」で有名な藤原道長が薨去した年である。
道長はその晩年に出家し、法成寺を建立した。諸国の受領は、官への納入を後回しにしても、道長の法成寺建立のために争って奉仕した。
この道長の栄華により、世は律令体制が完全に崩壊し、権門勢家の時代に入ったとわかる。つまり権力を持つ者の思うがままの時代である。平忠常の乱は、そんな時代を背景としている。
そして、源頼信は道長の下で、「道長四天王」の一人と言われた人物である。
将門や忠常の桓武平氏は、関東に土着して期間が長く、忠常は国司の命に従わず、租税も納めなかったという。
藤原氏は、中央の命に従わない平氏に見切りをつけて、自らに忠実な源氏の勢力を関東に植えつけようと画策したようである。
乱の当初、朝廷では右大臣藤原実資が、追討使に頼信を推薦している。
先に述べた、頼信が常陸介の時に忠常を臣従させたことが理由だが、関白藤原頼通が平直方を抜擢し、後一条天皇の裁可により、直方が追討使に任命された。
直方は、貞盛流の平氏として、忠常の良文流平氏と対立していた。直方は喜び勇んだことだろう。

どうも、頼信は自力では忠常を討伐できないと考えたようで、まず直方を当てて、忠常軍が疲弊したところで、頼信の源氏が新手として投入されたように思える。
呑気な話だが、戦略的には理に適っている。
平安時代、武力を持たない貴族は、こうして平氏が力をつければ源氏を対抗馬として、源氏が力を持ち過ぎれば平氏を台頭させるということを、後白河法皇の頃まで繰り返すことになる。

『今昔物語集』には、頼信が常陸介在任時に、内海の浅瀬を選んで忠常の館を襲撃し、忠常を臣従させたとある。
内海とは、現在の霞ヶ浦だが、当時は太平洋の海が香取神宮の辺りまで入り込んでいたという。
しかし、頼信が忠常を臣従させていたのは事実としても、『今昔物語集』の話は後で作られた伝説だろう。
峯岸純夫という歴史学者は、長元3年(1130年)の大飢饉により、反乱軍が戦闘能力を失って降伏したと述べている。真相はこんなところだろう。

平忠常は、京に護送される途中、美濃国で病没した。首だけが京で晒し首となったが、後に首は親族に返された。
こうして、将門の後継者のように乱を起こした忠常は、敵対した直方と共に、頼信の引き立て役に回ることとなった。
平直方は、働き損になった。
この当時の武士は、
「自分が働いたから、頼信は忠常を討伐できた」
と主張するほどの気概はない。
時代はまだ、貴族の裁量による判断が圧倒的で、貴族の扱いが不当でも、下々の者は泣き寝入りするしかない。
直方はむしろ、関東は平氏から源氏が主流になると判断し、むしろ源氏に接近しようとした。
時に頼信、64歳。高齢である。
高齢だから、当然子もいる。嫡男の頼義である。
頼義は44歳。既に初老である。
この時代、初期の清和源氏の人物は、壮年以上の年になってから、歴史の表舞台で活躍することが多かった。
直方は、頼義の武芸、特に騎射の腕前に感服し、娘を頼義に娶せた。
また直方は、鎌倉の地を頼義に譲り渡した。後に源頼朝が鎌倉に本拠を置いて幕府を開く由緒は、この時に始まる。
忠常の系統から、上総氏、千葉氏が出て、直方の系統から北条氏が出たという。
こういう系統は、今から見れば非常に怪しく、本当かどうかわからない。
しかし後の源平合戦で、頼朝の陣営に上総氏や千葉氏といった平氏が参画するのは、後世の我々から見れば、若干の違和感を覚える。坂東平氏と源氏の関係は、この時から始まったのである。

源頼義は、実に素朴な人生を送っている。
直方の娘を娶ったが、これが初婚なのである。当然子もいない。
嫡男の八幡太郎義家が生まれるのは、50を越えてからである。
この時まで、頼義は無位無官である。
頼義の弟の頼清は、この年(1031年)に安芸守に任官されている。
「若い頃から武勇の誉れが高かった」と言われているが、そんな将来を嘱望された若者が、こんな日陰の人生を送ってきた訳はないだろう。
忠常の乱で、頼義はめざましい働きをしたというが、忠常はすぐに降伏したのだから働きがあったはずがない。
それなのに歴史は、この時の頼義が若武者であったかのように描き、頼義の年齢を忘れているようである。
忠常の乱が、小説にならない訳である。
頼義が出世しないのは、母の身分が低かったからだという話もあるが、同じ母を持つ弟の頼清は頼義より早く出世している(頼義と頼清は7歳違い)。
考えられることがひとつある。
つまり、頼義は頼信の実子でないと疑われ、そのために嫡男とは名ばかりの、庶子以下の扱いを受けてきたということである。
通い婚が主流の平安時代を考えれば、あり得る話である。
傍証もある。
平安時代から、通字というものが使われるようになる。
織田信長の父が信秀というように、織田家は代々「信」の字を通字としている。徳川家なら「家」が通字である。
しかし平安時代は、藤原道長の兄が道隆、道綱というように、兄弟で通字を用いる。道長の子は頼通、教通というように、父子間で通字が使われることはない。
頼義の子から、義家、義光など、源氏の通字に「義」の字が使われ、河内源氏は「頼」と「義」の二字を通字とするのである。
どうやら、平直方の頼義への入れ込みようは、直方の軽い復讐だったようである。
直方は主に京で活躍する武士で、源氏の内部事情も知っていたと思われる。
直方は、鎌倉の所領を頼義に譲る際。自分の郎党も分け与えたという。
頼信は、長いこと頼義を部屋住みのように扱ってきたが、その頼義が勢力を持つようになると、頼義を跡目にしない訳にはいかなくなる。
もっとも、後の前九年の役を見ても、頼義は間違いなく武勇の人だし、頼義の本当の父が誰か、今となってはわかりようもないが、庶子なら名字を名乗らせればいいのを源氏のままにしているところ、疑いがかすかなものか、源氏を名乗らせても支障がないと思える身分のものであったのではないかと思える。

こうして、頼信は関東の武士と主従関係を結び、勢力を拡大していった。
頼信は忠常討伐の功により、美濃守に任じられた。
乱後、頼義は小一条院の判官代に任じられた。
小一条院とは、三条天皇の皇子で、元皇太子だった人物である。しかし藤原道長が権勢を維持するために皇太子を辞退させられ、准太上天皇の処遇を受けた。
出世街道ではないが、それまでの人生に比べれば天と地の違いである。小一条院は狩猟が好きで、弓矢が得意な頼義は重宝された。
そして、長元9年(1036年)にようやく、相模守に任じられた。実に遅い人生のスタートである。
そして永承6年、頼義は陸奥守となる。
しかし、単なる受領としての就任ではない。
前九年の役が没発し、その対処のためである。

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