夏八木 秋成『だから私は』を読んで
夏八木秋成さんの連作短編集『だから私は』の感想文です。
『密やかに吐く』『ペトリコールかゲオスミンか』『世界のしくみ』『だから私は』の四作からなる短編集です。
この作品を初めて読んだのはもう一か月ほど前のことになりますが、初めて読んだ時の衝撃がすさまじく、また僕も人様の作品に感想を書くという経験をしたことがなく、感想記事を書こう書こうと思いながらもなかなか気持ちがまとまらず、結局ずいぶん時間が経ってしまいました…。
その間、何度も読み返させていただきましたが、初めて読んだ時の、脳天を思い切りしばかれたような強烈な衝撃とはうって変わり、読み返せば読み返すほど心に染みわたる、心に寄り添ってくれる、そんな優しくも力強い作品です。
『でもね、それって「今生きてる世界の普通」に自分がなれるってことじゃない。あんたがそのままでいることが「普通」って呼ばれる世界がどこかにあるってこと。』
これは、『世界のしくみ』で穂鷹に対し由奈さんが言ったセリフです。
この小説はまさに、自分を『異常』と自覚し、どこか諦めたような生き方をしていた穂高を慈しみ、彼に一縷の希望を提示した由奈さんのように、生き辛さを抱えた人にそっと寄り添ってくれるような、そんな小説なのです。
どこか情けなく、不器用で、生きることに少しだけ向いてない、けれど確かに自分の人生を歩む主人公たちの、ちょっと滑稽で、けれどうんざりするほど愛おしい恋や愛に関する、四つのお話です。
とても濃ゆい内容の作品たちですが、文字数的に見れば少なく、夏八木さんの文章のセンスも抜群のため、すぐに読めてしまいます。
ここからはネタバレ含む感想になりますので、先を読む前に、ぜひ本編をお読みください。
「翻弄されているということは 状態として美しいでしょうか」 椎名林檎 『依存症』
生きていくうちで、いわゆる『依存』に直面する人間が、一体どれほどいるのだろうか。
自分自身、呆れるほどの極度な依存体質である僕は、定期的にそんなことを考える。
煙草、酒、ドラッグ、ギャンブル、ネット、ゲーム、推し活。
そして恋愛依存。
考えてみると、みんな何かしらに依存しているように思えてくるし、この世界で依存から遠く離れたところにいる人の方が少ないんじゃないだろうか、なんて思ってしまうこともあるけれど、結局、『世界のしくみ』の穂鷹の言葉を借りれば
『それでは俺と同じ種類の人間は、一体今どこでどう生きている?なぜ俺の周りにはいない?』
という結論に至ってしまうわけで。
程度の問題なのかもね。
そんな僕にとって最も天敵なのが、恋愛依存だった。
それについてネットで簡単に調べてみたところ
『依存性パーソナリティ障害を有する確率について、「米国の一般集団の1%未満」と推定されており、男女ともその有病率については男女差は無いと考えられています』
だそうで、やっぱり、明確な依存までに陥ってしまうのは少数派らしい(日本人には米国よりも依存体質が多いイメージは無きにしも非ずだけど)。
と、なんでいきなり依存の話をしたかというと、この連作短編集の表題作にもなっている『だから私は』が、典型的な依存についての小説だからだ。
どう頑張っても、『状態として美しくはない』由奈と比呂の関係を、由奈の視点で描いたこの物語。
比呂の由奈に対してのスタンスは、『まるで私のおっぱいに人格が宿っていると勘違いしているかのよう』という一文で描写されたような、少なくとも由奈が求めているであろう『愛』を、彼女に対して抱いているようなものではなかった。
そんな比呂に、由奈は常に翻弄される。
比呂の言動が、私そのものではなく、おっぱいの私に向けられたものであることは、由奈も重々承知だった。
実際由奈は、冷静に、客観的に自分を分析し、自分をどうしようもない女だと自覚したりもしている。
『世界のしくみ』でスナックの経営者として登場する由奈も、当時のことを振り返り、『状態としては美しくない、かな』と当時のことを振り返っている。
それでも由奈さんがとても魅力的なキャラクターとして見えるのは、何も僕が同じような依存体質で共鳴しているから、という理由ではないのだと思う。
確かに由奈と比呂の関係は、状態として美しいとは言えないかもしれない。
けれど一体、由奈ほどに人を愛すことができる人は、世の中にどれくらいいるのだろう。
人を愛すってことは、大人になればなるほど、難しい。
その意味をちゃんと理解しないまま、ごっこ遊びに興じることができた中高生の頃と違って、大人になればなるほど、愛には溢れかえらんばかりのしがらみが絡みついてくる。
無償の愛なんてものは、鼻で笑いながら、けれど深夜にこっそりおセンチに浸りながら想いを馳せるだけの、ただのフィクションになり果てる。
多くの、おそらく依存とは縁なく人生を歩んできた人ほど、そのあたりをよく考えず、けれど本能的に、器用にその変化に順応できるんだと思う。
かたや、由奈さんは決して生きることに器用ではなかったけれど、子供な恋愛から大人の恋愛に移行するその時期に、比呂への依存を経験したことで、愛や人生について、とても広い視野と深い洞察力を身に着けたのではないだろうか。
もちろんこれは、もともと由奈さんが聡明な人だったからというのもあると思う。
彼女は、比呂との関係に身をやつしながらも、そんな自分を客観視できる冷静さを持っていた。
『世界のしくみ』では、赤の他人相手でも慈しむことができてしまう自分に、自分が誰の母親なのかを自覚させるため、スマホの待ち受けを息子の写真にしたり、客にママと呼ばせなかったりという、彼女のなりの生き抜く術が描写されている。
さらに、比呂との関係を『恥じたりは』しなかったり、愛したい人を愛すだけと決意していたりと、翻弄されながらも自分の芯をしっかりと持った美しい女性だ。
けれど、そんな由奈さんでも、彼との関係を経験しなければ、『世界のしくみ』で描かれた由奈さんにはたどり着けなかったかもしれない。
それは、由奈さんが思い描いた未来ではなかったかもしれないけれど、結果的に『世界のしくみ』で描かれた由奈さんは、穂鷹にとって、一縷の希望を与えてくれた救世主的存在になる。
そして、とても魅力的な人間にも。
無作為で無際限な優しさを持つ人間は、壊れやすい。
もちろん、依存に陥りやすいのも、人生の転落を経験しやすいのも、いつだってそんな優しすぎる人たちだ。
由奈さんも、穂鷹の指摘通り、きっと優しすぎたのだろう。
『だから私は』を読んでいても、彼女の優しさが、常に滲みだしてきては、読者の心を切なく、苦しませる。
けれど、『世界のしくみ』で由奈さんは、そんな優しすぎる自分をコントロールする術を身に着けていた。
これも、比呂との関係を経たうえで彼女が身に着けることのできた生きる術なのかもしれない。
比呂との関係は決して、状態として美しくはなかったのかもしれないけど、その先には確かに、それまでよりも強くなった自分がいるかもと考えると、案外、こんな恋愛も悪くはないのかもしれないと、そう思わせてくれる。
ここまでは、表題作の『だから私は』についての感想を書かせていただきました。
この『だから私は』は、椎名林檎さんの『依存症』という楽曲からインスピレーションを受けて書かれたものだそうです。
お恥ずかしながら、『依存症』は一度も聴いたことがなかったのですが、この作品をきっかけに、思い切りはまりました(最近は、『だから私は』を読むときは常に聴いています)。
実際、この曲の持つ雰囲気と、小説の持つ雰囲気がとてもマッチしていて、読み終えた後、依存症を聴きながら目を閉じると、まるで映画のように、この短編集の情景が音楽に合わせてフラッシュバックするほどです。
ちなみに、表題作以外の作品も、この依存症ととてもマッチしています。
この短編集は基本的にダウナーな雰囲気ですが、どこか幻想的で、そうしてひょんなことから爆発してしまうんじゃないだろうか、なんてハラハラするようなひりついた激情が根底にあり、読み応え抜群ですので、ここまで読んだ方でまだ読んでない方がいましたら、ぜひ、全編お読みになってください。
と、なんか締めたような感じになってしまいましたが、他の作品の感想も書かせていただきます。
次は『ペトリコールかゲオスミンか』です。
この作品は、『密やかに吐く』で登場した甲本と奈津子の息子のお話です。
『依存症』の歌詞にある
「孤独を知るほどにあなたの相槌だけを望んでいる」
という一節がぴったりなのが『だから私は』だとしたら、この『ペトリコールかゲオスミンか』は
「あなたの其の瞳が頷く瞬間に初めて生命の音を聞くのです」
という一節がぴったりな小説で、僕が夏八木さんの小説にはまるきっかけになった作品です。『だから私は』をすべて読み切る前に、『ペトリコールかゲオスミンか』を読んだ時点で、そのあまりの衝撃にコメントをさせていただいたのですが、冗談抜きに、コメントを打つ手が震えてしまうレベルで頭をがつんと打たれたような、そんな衝撃を受けました。
内容は、吃音や、周囲の心無い態度に悩み、生きていることに意味を見いだせなかった主人公の康太が、河瀬悠太郎と出会い、恋を知り、人生に向き合うための第一歩を踏み出す、という、構成だけを見れば王道を行く作品です。
けれど僕は、本当に優れた小説というのは、そんなありきたりな日常を、自分の言葉と感性を使って、自分だけでなく、読み手にまで、世界にたった一つの宝物になるように仕立て上げてしまうことのできた小説だと思っていて、この『ペトリコールかゲオスミンか』かは、まさにそんな作品です。
この作品に限らず、夏八木さんは小説の世界観、特に主人公たちが現状感じている匂いや温度感などを描写するのがとてもうまく、まるで映画でも観ているんじゃないかと錯覚するくらいに、手に取るようにその情景が思い浮かんでくるんですが、『ペトリコールかゲオスミンか』はそれが特に際立った作品でした。
康太の汗の描写なんかは、リアリティありすぎでむずむずします
また、隣にいながらスマホで会話することを提案するというその描写だけで、河瀬がどんな人間かを瞬時に読者に理解させるなど、こまやかなテクニックも随所に散りばめられていて、全編を通して繊細に、丁寧に主人公たちの心理を描かれているその力量にも脱帽です。
ものすごく細かいとこですが、河瀬のメッセージアプリのIDが『yut@row』なのめちゃ好きです。
このIDの作り方だけで、河瀬がどんなやつなのかを想像させてくれるこの描写のすごさよ…。コメントにも書かせていただきましたが、康太が自室に向かう際に、階段を上がる毎に、時系列に沿って並べられた写真を見ながら
『あと数年したら、こんなのが産まれるよ』
と呟くくだりは秀逸すぎて何回読んでももだえます…。
康太は、河瀬との関係を深めていく中で徐々に行動的になっていき、河瀬と長瀞のお祭りに行くまでになります。
そして、道中ではスマホを使わずに会話をし、お祭りでは、河瀬を下の名前で呼び、ラストには、それまでの康太からは信じられないような行動、悠太郎への告白、なんてことまでやってのけます。
ラストの、結ばれた二人が言葉を交わさず花火を眺める描写はとても美しいです。
だから余計に、僕はこの話を読み終えた後、二人の未来についても考えてしまいました。
きっと康太は、悠太郎との日々の中で、それまで知らなかったたくさんの嬉しいや楽しい、愛おしいを知ることになるでしょう。
けれど同時に、それまで知らなかった類の悲しいや苦しい、そしてきっと、憎いって感情も、知ることになるでしょう。
康太はきっと、そんな感情を経験しながら、河瀬に依存して生きていくことになるのかな、なんて思います。
けれど人は成長の過程で、何かしらに依存しながら生きていくのが普通だと思います。
それは子供が、家族やそれに準ずるもの(児童養護施設とかね)に経済的に依存しなければ生きていけないのと同じように、人としての様々な感情を知り、コントロールする術を身に着けていく過程で、多くの人が誰かに依存することになる。
その過程は、確かに無様かもしれないけれど、康太にとって、大人になるために必要な、人として美しくなるための、『生命の音を聞く』ための依存なのだと思います。
次は『密やかに吐く』についてです。
愛を知るための第一歩を踏み出す物語が『世界のしくみ』、愛を知る物語が『ペトリコールかゲオスミンか』、知ってしまった愛に翻弄される物語が『だから私は』なら、この物語は、知りたくなかった(目を背けようとしていた)愛を知ってしまう物語、でしょうか。
彩花は、甲本に対する好きという気持ちに気づかないまま、けれど彼に何か特別な感情を抱いていることははっきりと自覚しながらも、結局何もしないまま大学時代を終え、甲本ともそれっきりとなってしまいます。
個人的には、彩花は気づいていなかったんじゃなくて、気づかないふりをしていたのかな、なんて思ったりもしています。
告白して傷つくのが怖かったのかな、と。
回避依存症、というと大げさすぎるかもしれませんが、あんまり大切にしすぎてしまうと、それが壊れてしまう恐怖から手を出すことができなくなってしまうという感情は、とても理解できます。
もし彩花がそんな理由から甲本への告白を避けていたのなら、結果として彩花は、綺麗な思い出だけを宝箱に閉じ込め、先延ばしにしていただけの『幸せの崩壊』を、思わぬ形で突きつけられてしまうことになります。
そこで彼女は多分、目を背けようが、行動しようが、幸せになるときもあれば、崩壊してしまうこともあるんだと、ちゃんと認識できたんだと思います。
エンディングはとても切ないものですが、彼女は甲本と奈津子さんの結婚式にカメラマンとして参加することで、それまで苦手だと思っていた中尾さんと親交を深めていくことになり、『世界のしくみ』では、一生かけて一人手に入れば大吉、ってくらいにいい友人関係を築いています(中尾さんが彩花をどう思っているのかは、また色々と想像の余地がありますが)。
彩花にとってとてもつらい経験だったかもしれないけれど、きっと彼女はそれを『密やかに吐く』ことで、人として一歩、成長できたのだと思います。
最後は『世界のしくみ』です。
まず、穂鷹の語り口がいいです。
理屈っぽく、悩んではいる?けどものすごくドライで、自分の性質を理解し受け入れたうえで、諦めきっている、そんな彼の性格が滲みだすような語り口です。
『謝罪を要求してきた』連発の序盤で一気に彼の魅力に引き込まれます。
この作品のとても好きなところは、普通の人の中溶け込みつつ、そこで穂鷹が幸せを見つけていく、というようなストーリーではないところです。
由奈さんの言うように、彼自身がそのままでいることが『普通』である世界がいつかは見つかるから、というほんの少しの希望を穂鷹が見出したところで、ストーリーは終わります。
結局、穂鷹が愛を知るものすごく小さな第一歩を踏み出すことになっただけです。
でも、それがいいんだと思います。
無理に溶け込んだ場所で見つけた幸せは、きっと満足のいかない、息苦しいものになってしまうと思うし、それは自分にとっても、他人にとって、いいものではないでしょう。
でもきっと、自分が普通でいられる世界で見つけた幸せは、自分にとっても、周囲の人にとっても、いいものになるんだと思います。
穂鷹が、彼が普通であれる世界を見つけられること、そしてもしかしたらそんな世界で、彼が彼なりの愛を知ることが出来たら、それはとっても、素敵なことですね。
以上、とても長くなってしまい申し訳ないです。
そして時間をかけた割には、結局とっちらかってしまい、自分の力不足を恨んでおります。
何が言いたかったかって、夏八木さんのこの作品は、全編を通してとても優しさに包まれており、いわゆる世の中の『普通』や『常識』や『よいとされること』に馴染めずもがく、それでも必死に今を生きようとしている、優しすぎるすべての人たちにそっと寄り添い、手を差し伸べてくれる小説だということです。
僕も、この小説と出会えたこと、こうして何度も読めることに、とても感謝しています。
この感想文に書いた感想は、作者様の意図と反する部分もあると思います。
なので皆さまもぜひ、自分なりに色々感じながら、『だから私は』を読んでみてください!