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わたしの熱帯


吉田神社節分祭


はじめに




2018 年 12 月 24 日、私は twitter でええじゃないか騒動に興じていました。

さまざまな方と、小噺をつけてみたり、ええじゃないかの回数をふやしてみたり、飽きることなく楽しんでいました。

この狂乱の中でSさんを発見し、テンションの上がっていた私は思わず言ってしまったのです。



ええじゃないか
(私の『熱帯』だけが本物なの)



翌日から、私はまとまらない思考を実に膨大な量の DMでSさんに送り付ました。

年末の忙しい時期になんと迷惑なことを…今では反省しているのですが、『熱帯』の魔力に憑りつかれていたのですから、責任者は間違いなく登美彦氏でしょう。

以下はその時に書いた私の妄想です。

少しでも楽しんでいただけると良いのですが。



神保町



①仮説たち



※ここでの「本」は「小説」または「物語」を示す

『熱帯』は本についての本である
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「小説」の成立する最小の条件は何だろう?
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「作者」と「読者」の二人が存在する事かな?
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仮説❶『熱帯』は「作者」と「読者」の物語である



僕(佐山尚一)=森見登美彦を『熱帯』に投影した人物=「作者」であるとする   
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仮説➋第二章及び第三章は「読者」のパートである
仮説❸第四章及び第五章は「作者」のパートである

森見登美彦は書き出しに拘る作家である
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仮説❹「作者」のパートを読ませるために丁寧に描かれた書き出しの口上が「読者」のパートである



次からは、これらの仮説と共に再読して生まれた 妄想です

ランチョンにてカツレツとバヤリース



②不可視の群島とは?



第四章は「作者」のパートである
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不可視の群島は「作者」の精神世界の投影ではないだろうか?


〈創造の魔術〉とは思い出すこと
海から〈創造の魔術〉で島や街が生まれてくる
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海とは「記憶」ではないか
島や街は「物語」かな?


「大海原に雨が降るほど馬鹿馬鹿しいことはないな。このノーチラス島にこそ降るべきである」
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「作者」が惜しむことは「島や街=物語」を構築するための「言葉」が「海=記憶」の彼方に消えていくことでは?
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雨は「言葉」ではないだろうか


そうすると二両編成の電車は何だろう?
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電車が走行するために必要なものは何だろう?この電車は叡山電車だと思われる
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レールは「海=記憶」の中に隠れている
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叡山電車は「街=物語」の合間を走る
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「島=物語」が見えない時でも電車は見える
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ある作家(だれか忘れてしまいました)が「近頃の作家はアイデアを書き連ねるだけで小説というものを創れる者がいない」と書いたのを読んだことがある
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小説を書いてみようと思ったが書きたい部分しか思い浮かばず挫折したことがある(本が好きな人間に多いのでは)
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電車が走るレールは「海=記憶」に隠れて「島や街=物語」の合間に存在する
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電車が「島や街=物語」の合間を「海=記憶」に埋もれていない道を走行していたら、作品が編まれ「小説」が誕生する
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電車は創作の発端であり書きたい所だが、それだけでは「小説」とは成り得ない「アイデア」または「インスピレーション」ではないだろうか



蔦珈琲店




③魔王が創りだした人々



※第五章終盤までの「作者パート」の呼名で統一する

「僕」は「森見登美彦」が書いた『熱帯』に投影した「自分=森見登美彦」

「佐山尚一」は「僕」が書いた『熱帯』に投影した「自分=僕」とする


学団の男である佐山尚一は僕(佐山尚一)によって『熱帯』と名付けられた
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「不可視の群島=作者の精神世界」のすべては佐山尚一の死骸から作られている
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佐山尚一は「小説」に成るに至っていない「未完の小説」ではないか?
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『熱帯』で1番違和感があったのが大砲の島で死んだ「佐山」の遺体に蠅がたかったこと
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これまでの森見作品にはなかった直接的にグロテスクな表現
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数多の「未完の小説」たちがさらに多くの語られなかった「物語」を内包している
                ↓
「作者」とはなんと業が深いのだろうか
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千夜さん、図書館長、芳蓮堂主人、ナツメちゃんも島や街と同じく「佐山=未完の小説」の一部である「物語」たちだろう



しかしそれだけだろうか?
彼らは僕とあまりに深く関わっている


彼らを創り出したのは魔王である
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魔王は僕に未完の物語を継承したい
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魔王は作者に成り得なかったのか
              ↓
魔王は佐山尚一に縁のある人物を、あえて僕の周辺に登場させたのではないだろうか

千夜さんは僕が〈創造の魔術〉を使って「彼ら=物語たち」を救うと信じている
図書館長は僕の意見に異議を唱える
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僕に正反するふたりは現実で友であった
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友は僕の創造を拡げ深めるのを助ける存在


芳蓮堂主人は僕を老人の所から連れ出した
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老人も僕と同じく魔王の支配する不可視の群島に訪れた異邦人である
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老人の元では僕は「作者」になれない
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芳蓮堂主人はナツメちゃんと暮らしている
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家族は「最小の社会」である
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芳蓮堂の島で他の島の様子を知り千夜さんと再会した
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僕の社会的孤立を防ぎ見識を拡げるのを助ける存在


東京會舘銀座スカイラウンジ


④新しい仮説たち


仮説❺魔王は「僕」の近くに助力になる存在を登場させた

仮説❻魔王も老人も「作者」になれなかった



こうして考えるのすごく楽しい!
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かつて諦めた創作を体験しているような…
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千夜さんが消えた時も楽しそうだったよな
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千夜さんも創作が楽しかったのでは
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私の『熱帯』だけが本物なの
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仮説❼「読者」のパートから千夜さんと池内氏が消えたのは「作者」になったからでは


表参道


⑤魔王と老人と僕


老人と僕は別人だろうか?
同一人物だろうか?
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別人だとすると、老人が語った記憶たち「思い出の街の姿…進々堂…芳蓮堂…」は「僕の記憶」を「自分の記憶」のように倒錯しているのか?
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いや、それらの「思い出の街の姿」は僕と魔王に共通する
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魔王が僕と別人であるのなら、老人も僕ではないのでは
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なぜ僕は「作者」になれて魔王と老人はなれなかったのか



老人は記憶を失っていた
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老人はシンドバッド時代に他の「島=物語」を侵略していた
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老人は自分が創り出した「海賊=物語」を愛していない
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「……繰り返し自分に物語を語り聞かせていれば、やがてそれは真実と見分けがつかなくなるだろう」
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「小説」の最低条件は「作者」と「読者」であるが老人は独りだった
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「読者」を求めず他の「作者」の「物語」の存在も否定するどころか自分の「物語」も軽んじる孤独な老人は「作者」に成り得ない


魔王と僕の違いは何だろう
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魔王(栄造氏)は戦争を体験した
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『魔術から数学へ』の終盤に「魔術にしても、宗教にしても、政治にしても、それらが彼らの日常であったからには、それらを通じてだけ彼らの想像力は発動し、彼らの世界のイメージを結んだはずだ」とある
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魔王にとって戦争は日常であった
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栄造氏の想像力は戦争を通じて世界のイメージを…Sさんが「マルドリュス版は戦争で中断された」と言っていたな
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戦争により生れた作品もあるけれど永遠に失われた、この世に誕生しなかった作品もあるではないだろうか
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魔王(栄造氏)は戦争の記憶により創作することが出来なくなったのでは



多くの人間のなかで近い「記憶」もった三人だが「僕」だけが「熱帯」を完成させた
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「魔王」と「老人」は「作者」になれた「僕」と対比する存在
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「魔王」は戦争という外因で「老人」は排他的だという内因で「作者」になれなかったのでは



茗荷谷



⑥世界の構造



不思議なものを見たら語りたくなる
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「満月の魔女」は「読者」を「作者」の世界に誘う「創作の誘惑」では
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そういえば牧画伯の「満月の魔女」には「月」がない
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いろんな人間のもとに「月」が現れている
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第五章の託される物語には栄造氏以外に「月」がみられる
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しかし「月」の表現は統一されていない?
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第三章の比喩「船室」「巨大な客船」「大波」「城壁」「水没」など「想像の世界、熱帯の世界」に繋がっている
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第四章五章の比喩「宇宙空間」「別の天体」など第三章に似通った比喩に混じり「宇宙」が入る
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「僕=佐山尚一」は別の世界に辿り着いた
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あれ?その世界の「佐山尚一」は?
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佐山尚一の『熱帯』は異本が存在する
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佐山も千夜さんも今西君もひとりではない
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栄造氏もひとりではない
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世界が入れ子構造になっている
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第一章と後記の沈黙読書会は同日では?
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佐山尚一を基準にすると第一~三章、
第四章~後記までとの2つの世界に分かれている
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佐山の前日譚になりこの構造が分かりやすくなりすぎるので序章がないのでは
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「満月の魔女」は「世界の謎」「世界の構造」の「道標」であり、『夜行』における銅版画の役割をもつのではないだろうか


播磨坂



⑦虚と実



某YouTube 生放送
「進々堂って本当にあるの?」
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忘れていたその感覚!
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芳蓮堂は「虚」進々堂は「実」と思っていたけれど、それは全読者の共通認識ではない
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読者にとって小説の「虚実」はあまり意味があるものではない
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いや、読者の共通認識が2つだけある
            ↓
第一章の「森見登美彦」と後記の「森見登美彦という小説家の書いた『熱帯』という小説」は文藝春秋から出版された『熱帯』を読んでいる読者に「真実」として認識されている



第一章を森見登美彦の語りから始めたのは「真実=現実の世界」から「虚像=想像の世界」へ誘導し、後記で森見登美彦の『熱帯』を登場させたのは「虚像」に入り込み過ぎた読者を「真実」へ帰すという親切ではないだろうか
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いやむしろ「真実」と「虚像」が地続きになるための罠かもしれない
              ↓
どこから「真実」でどこまで「虚像」か…本当に『熱帯』は謎の本だな
              ↓
謎の本…「沈黙読書会」では謎を解くことが絶対的に禁止されている
              ↓
謎を派生し増やすことや連想した本について語ることは許される
              ↓
第一章の店主「謎を謎のままに語りしめる。そうすると、世界の中心にある謎のカタマリ、真っ黒な月みたいなものが浮かんでくる気がしない?」
              ↓
『熱帯』には序章がない



森見登美彦の『熱帯』は読者に想像させるために大きな余白を創り、最初から読者に語ることを推奨し、「真実から虚像」へ、「現実から幻惑」に読者を誘導して、「私だけの『熱帯』」という言葉を繰り返している
                ↓
私は森見登美彦に語らされていた


善光寺




⑧序章


佐山尚一の『熱帯』は数多に存在する
                ↓
世界(0)から(1)へ、世界(1)から(2)へと、佐山尚一が隣の世界へずれて移っていく
                ↓
世界(0)ではどこの世界からも佐山尚一が訪れていない
                ↓
無数に存在する並行世界の中には帰って来られなかった佐山尚一も存在する


佐山尚一の失踪までを書いた序章が存在すると仮定し 『熱帯』の世界と時間軸を『四畳半神話大系』的に表現すると


世界(0) 序章………………… →1章→2章→3章
世界(1) ………4章→5章→後記


佐山尚一の「喪失前」を「序章」で書かずに回想という形で第五章の終盤と後記に書いたことは森見登美彦の親切だと思う

森見作品の魅力は「余白」である

森見登美彦は書き上げた小説を読者にまるっと渡してくれる

あとは読者のものだと
そして小説の中に書かない部分「余白」を創ることで読者自身に語らせてくれる

『熱帯』はすごい熱量の小説である
この小説を読者に語らせるためには大きな「余白」が必要であり

佐山尚一の「喪失前」を第五章と後記に書くことで「序章」をまるごと「余白」にしたのではないかと考えた


喫茶ローヤル



⑨熱帯とは


本文中でもっとも魅力的な言葉は
「私の『熱帯』だけが本物なの」です。

この言葉が繰り返されることによって読者の想像はふくらみ語り手となります。創作の「愉悦」を与えられて夢中になってしまうのです。

しかし、それだけではありません。

「汝にかかわりなきことを語るなかれ」

同じく繰り返される言葉です。奈良から東京へ京都へと物語の舞台は移ります。

東京と京都の比喩表現を比べてみると随分と後者が多弁です。氏のスランプと照らし合わせると、自身に対する厳しい言葉であり創作の「苦悩」を感じさせます。

数多の佐山尚一(未完の小説)に対する今までにない残酷な表現では作者の「業」が描かれています。

また、佐山尚一(森見登美彦の投影)を通して読者に伝えられるのは、作者であることの「幸福」ではないでしょうか。

「この門をくぐることを決めたのは君自身なのだよ」

『熱帯』の「門」は創作の決意だと思います。佐山尚一は 36 年を経て再び『熱帯』と巡り合いますが、そこは「民俗学博物館」であり「太陽の塔」です。連想されるのは作家・森見登美彦のデビュー作ですね。そして「門」が開き冒頭へかえります。

想像を力に創作を繰り返し、作者であり続ける。

小説家・森見登美彦の決意表明に思えます。



以上のことから、『熱帯』とは

本をテーマに創作を通じて

作者の苦悩に愉悦、業と幸福を読者に伝え

自身のスランプに真っ向から挑み

想像の力で書き上げた

作家・森見登美彦の最高傑作です。


万博記念公園



おわりに

こうして読み返してみると…こんなに長々とした妄想を師走の忙しい時期に送り付けるとは…本当に頭がどうかしていたと。

とても楽しかったです。

【①仮説たち】から始まり【⑨熱帯とは】で結ぶ私の『熱帯』ですが、これらは2018 年クリスマスから 2019 年正月までのものです。

これ以降も私は本を読み、人と会い、生活を営んで生きています。そうすると、私の『熱帯』は日々そのかたちを変えていくのです。

魔王はナゼ虎に襲われたのか、作者は自身の創作物を支配できるのか、ひとと本の関係は、などなど。追加された妄想もあり、今現在の私の『熱帯』はこのかたちではありません。

これは違ったなと思うところだってあります。

立派な作者の存在する本を好き勝手に妄想して自分のものにしてしまったあげく、更に変容させるなんて!あまりにも傲慢な読者ではないかと思いましたが、語ることと同様に許可はいただいています。

「最近、こういうものを読んでいると心がやすらぐんだよ」
「時間が経てば変わるものだな」

今西君がギリシア哲学の入門書を読むようになるのです。私も変わるのは当然。それに伴い読んだ本の考察が変容するのも当然ですね。

『ペンギン・ハイウェイ』『夜行』そして『熱帯』で意欲的に描かれた森見作品の「世界の果て」。永遠の好奇心を生むこの謎と共に、これからも私の『熱帯』は変わっていきます。

しかし、この本の魔力的な魅力だけは、いつまでも変わることがないのです。


私の『熱帯』だけが本物なのです。

不可視の群島にて


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