「さよなら、ベルリン」(Fabian going to the dogs)
2022年9月某日
「さよなら、ベルリン」
またはファビアンの選択について
監督:ドミニク・グラフ
原作:エーリヒ・ケストナー
知識としての時代背景に弱く、難しかったので、
パンフレットを買って帰った。
ケストナーは原題を「Going to the Dogs」(破滅してゆく、落ちぶれてゆく、の意)
にしたかったのだけど、
出版社に「ファビアン」にされたと。
タイトルから露骨さやマイナスイメージを嫌ったのかなと書かれている。
それが出版時に「ファビアン あるモラリストの物語」にされたと。
それで映画になって邦題このタイトルになって、
「グッバイレーニン」みたいな映画かな?
みたいなざっくりした感じでボケーっと映画館に足を運ぶ私。
モラリスト(道徳家)という言葉がなにかイメージ偏らせるからかな?
〜イスト、〜イズム、とか◯翼とか◯翼とか、
そういうの邦人は嫌うもんね。特に今の時代、
って感じかしら。
広く多く観てもらった方が、映画だって喜ぶに決まってるもんね、そうだよねそうだよね…
そういう現代の日本や世界の居心地の悪さ、
馴染みがあって安心する看板じゃないと茨の道になっちゃう感じ、
思想や言論の不自由さが、
この1931年、大戦と大戦の間の、重々しい空気の時代、
ナチズムがジワジワと人々に侵蝕しつつあった時代に重なるのは、
気のせいじゃないですね、
過去なのか、現代なのかをあえてボカして境目を曖昧にした作品でした。
(曖昧か?と思いながら不思議な感覚で観ていたのだけど、
パンフレットで何人もの人が、語るに及ばないほど意図的に曖昧だ、と書いていて確信に変わった)
始まりは地下鉄のホーム。
現代のような、じゃないな現代だな、
底の厚い今風のスニーカーの人、
adidasのロゴリュックを背負った人、
電車を降りた瞬間にこちらに目をやった人は、
まるで偶然撮影にあった通行人の顔で、
ドキュメンタリーふうだ。
そこからヌルゥ〜っと境目なく1931年になるその感じ。
あえて重ねてる、
あの恐ろしい時代の一歩手前、
ドイツと世界はどんな風だったのか。
現代の日本や世界のようだったのかも、と。
「水泳を習おう」というキーワード。
(水泳の映画ではないw)
泳ぎ方を模索する恋人、
スイスイと自由型で泳いでゆく周囲の人間(なんて退廃的な!)
丁寧に目立たずに平泳ぎができる人々(横並びにみな同じ表情!)
そんな人々の中で、
ぜんぜん泳ぐ気がないようなファビアン。
いつでもあらゆる誘いを断りながら、
人が無視するような些細な人助けとかをついついしちゃう、
そういう人って、
日本でも結構しっぱいする。
例えば、倒れた人(他人)を介抱してました、
チカンにあってる人(他人)を助けて捕まえてました、
財布を落とした人(他人)を追いかけましたと、
そう言っていつも会社に遅れてる人がいたら、
いかにも昇進しない人材ぽい。
バカ正直だとか、偽善者だとか、
嘘に決まってるとか陰口言われてそう。
それでも最終的に救われたり、
誰かが見ててくれたりするのって、
映画とかドラマならあるけど、
実際は誰も見てない。
お天道様も見てなかったり。
そんな映画だったような。
戦時でも、平時でも、
こうやって一人一人は何者でもない人生を送る。
そんな人々かな。
あーでも、2人の恋愛はとても美しくて愛しかった。
親友との友情も…🥲
時間をあけて、もう一度観てみたいな。
あと、ケストナーを読みたくなった。
私の本棚に1冊ありました。
#ふたりのロッテ
落ち着きがなく本を読まなかった小学生時代に、
これは繰り返し読んだ記憶がある。
ちょうど両親が離婚した頃、
母が私に買ってくれた本は、
ふたごが結託して両親の寄りを戻そうとする話っていう。
母はなにを考えてたんだろう?今思えば(笑)
今の私より歳下だわ。
両方の親に会いたくて、入れ替わってパパとママに会いに行く双子の事を思い出すと、
ふと記憶が蘇り、涙が出る。
当時は心に残らなかった訳者のあとがきによると、
ケストナーはナチスに原稿を焼かれ、執筆を禁止されていた時に、
命の危険と闘いながら、この本をひっそり、ずっと、考えていたという。
今の世界をケストナーはどんな気持ちで空から観てるだろう…
って思って息苦しくなる。
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