あなたがロマンを望んだとしても:はらだ有彩『日本のヤバい女の子』
「なんか変わったね」と言われたことがある。
学生時代の恋人と7~8年ぶりに食事をしたときのことだ。
「むかしはなんかもっとこう…」少し残念そうに彼が続けた言葉はもうよく覚えていないけれど、というか聞く気にもならなくて頭に入ってこなかったのだけれど、どうやら私をもっと無垢で純粋な人間だと思っていたようだ。
この人は一体何を言っているのだろう。何を嘆いているのだろう。
それはきっと「私が変わった」ことではない。おそらく「私が思い描いていた人間と違った」ことだ。
ニコニコしているから優しい人。ピンク色を着ているから女性らしい人。黒髪だから真面目な人。色白だからインドア派。
誰だってそんな風に限られた側面だけで話を進められたらイヤだろう。私だってそうだ。「勝手に人を決めつけておいて違ったらガッカリするなんてあんまりだぜ」と思ってしまう。そもそも自分の理解の範疇で完結している他人なんていないと私は思っていたいし、だからこうやっていろんな本を読んでいる。
そうはいっても、うっかり気を緩めるとつい自分の物差しだけで物事を捉えてしまう。おそらく安心したいからだ。自分の知っている世界や信じてきた世界が正しかったのだと答え合わせをして安心したいのだ。
だから、かつての恋人に言われたことはショックではあったけれども、彼を強く責めたり否定することなどできない。私はそこまで強い人間ではない。
もし、時を経て少し大人になった今、彼に伝えたいことがあるとしたら、そんな寂しいことを言わないでほしい、ということだ。
だって、世界や社会が自分の知っているものだけだなんて、きっと退屈じゃないだろうか。好きな人をずっと好きでいようとするために、苦手な人を少しでも理解しようとするために、無意識のうちに変わっていく自分自身を受け入れるために様々な試行錯誤を続ける方が、大変かもしれないけれど、きっともっと刺激的だし孤独じゃないと思うのだ。
私たちが本当に100歳まで生きるかなんて誰にもわからないけれど、決して短くはない人生だろうから、日々複雑化する社会に生きているのだから、少しでも豊かな心でいるために、柔軟な想像力は忘れないでいたい。
ずっと悪女として語り継がれていた人がしたことは本当に悪いことだったのか。逆に「いい話」とされている物語は実際のところどうだったのか。伝説や昔話の中で生き続ける彼女たちに確かめる術はもうないけれど、想像力さえあれば、いつだって誰にだって会いに行ける。
「あの時、本当はどう思ってたの?」「実はこの間、私にも似たようなことがあってね」「あいつのこと、ほんとはどう思ってた?」
彼女たちと向き合ったとき、聞きたいことや相談したいことが山ほど出てくるに違いない。お互いの役割や与えられたイメージなんか脱ぎ捨てて、気がすむまで幾晩でも語り合おう。
押しつけられたロマンや夢を座布団にして、「おいしいワインがあるの」「ピザとっていい?」なんてキャッキャやりながら、ヤバい昔とヤバい今で、手を取り合って生きていくのだ。
「私はね、あなたのロマンのために生きているのではないよ」
この最高にエモい本は、そう叫んでいいのだと教えてくれた。
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