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本屋じゃないけど本屋のはなし

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本屋はやめちゃったけど本屋が好きな人の本についての雑談。
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#読書

読書が人生を救うかは別としても、取り急ぎ私の生活を守ってくれた個人的3冊

生活がヤバい、暮らしがヤバい、人生がヤバい。 ストレスと疲労がたまり、精神的にも肉体的にも限界を感じ始めていた1月の終わり、ついに腰をやった。重くなってきた子どもを抱き上げた瞬間、これまで経験したことのない激痛が腰に走り、動けなくなった。必死の思いで身体を引きずりながら近所の整形外科に行くと、「椎間板が傷んでいる」のだそうだ。 椎間板ってアレか?ヘルニアとセットで語られるソレか、なんて考えながら日常生活で気をつけることは…と消え入りそうな声で聞いて、なんとか帰宅。薬を飲ん

上とか下とか下とか上とか:マウンティング沼に落ちないための3冊

人をうらやむことなく生きていけたらどんなにいいだろう。 どんな時でも「自分は自分」と脇目をふらずにただ前だけを向いて生きていけたら、こんな清々しいことはない。 西に結婚したという友がいれば、走って祝いに行き、東に起業したという友がいれば全力で応援する。南に出産したという噂を聞けば「なんとすばらしい!生命の神秘なり」と拝み、北に夢を追う人を見つけたらエレカシの「今宵の月のように」を一緒に歌う。 そんな風に生きられたら、人生はもっとずっとずっと楽しいだろう。 でも、でもだ

みんなちがって、みんなみんな

自分が他の人と違うこと、そしてそれがとても厄介だということを思い知らされたのは小学生の時だ。 私は生まれも育ちも同じ土地で、父と母と兄弟と共に暮らし、身体は少し大きい方だったけど、喜怒哀楽も少し激しかったけれど、その他は大した特徴のない子供、のように見えた。 左利きということを除いては。 自宅の近所の幼稚園に通い、そのまま近所の小学校にあがった。幼稚園の頃からきっと左利きだったはずなのだが、それで困った記憶がないのは、おそらく「他者」を意識できるほど自分も周りも心が発達

本屋にいったい何ができる

そこに一軒の本屋があったとして。例えばそこで働いていたとして。 私に一体何が出来るのだろう。 どんな手段を使ってでも明日が来るのを阻止したい人がいたとして。希望という言葉を忘れてしまった人がいたとして。言葉にできない感情を「口にしてごらん」と言われて途方にくれた人がいたとして。行き場を探してたまたま辿り着いた人がいたとして。 本屋に一体何が出来るのだろう。 例えば、歴史を築いた人の本を置く。困難を乗り越えながら生きた人の本を置く。現実では絶対に起きないような壮大な物語

イントロからエンジン全開でもいいじゃない

書店で本を選ぶとき、あなたはどこを見るだろう?外側だったらタイトル、表紙、帯、中身、文庫の裏のあらすじ。内側だったら目次、冒頭、あとがき、解説。いろいろあるに違いない。 ちなみに私は小説においては冒頭と終わりを読む。なぜ終わりまで、という風に思うかも知れないが、終わり方が自分の好みに合うかをなんとなく見る程度なのでネタバレ的な危険性はない、と私は思っている。それに実際読み始めると最後にどんなことが書いてあったかなど忘れてしまうものだ。ついでに白状すると、よくある「ラスト一行