腰痛・肩凝り・花粉症🌸
体調でお悩みの方、多いようです。あれこれございますね。賢者さまのお知恵を拝借。まずは、軽快な曲で気分を楽になさって──
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「デカルトで始まったのじゃ」
『なんでしたっけ。割れ物、故に割れあり』
「コギト・エルゴ・スム」
『小麦とエスカルゴじゃないですよね』
「知らんでも、調べれば済むことじゃ」
『あ。我思う。割れ物じゃない』
「心身二元論で、心と体が分かれた」
『むむ。心と体って、一つなんですか』
デカルトが始まりかは兎も角、心と体を分けて捉える方、多いでしょう。それで、痛みや症状は物理的な処置が必要となるのです。
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「医者に行って、薬をもらうじゃろ」
『そりゃ、専門家は間違えませんから』
「痛みや症状は、医者が作るのかな」
『まさか。体の反応っていうか』
「ふむ。医者はなんの専門家じゃ」
『健康保険の、じゃない、治療です』
「そう。治療じゃ。原因ではない」
『原因の専門家って、いるんですか』
日々の暮らし、仕事のあれこれ、取り合えず痛みや症状を抑えないと始まらない。私たちは、いつもそのような局面へ、晒されているのです。原因についてなど考えません。
😷 😷 😷
「心と体はコインの裏表じゃ。痛みや症状、それぞれ真の原因は一人ずつ違っとる。本人しかわからん。まず、仙骨に訊くことじゃ」
『考えたこともありません。てか、仙骨が作り出してるんですか。痛みや症状って』
「知らんのかね。脳ではないぞ」
『脳かと思ってました』
「オーノウ🙅」
『( ̄▽ ̄;)』
現代医学は脳を基盤とします。一方、この【在り方革命】では、仙骨を中心に据えます。無脳症の存在を重視するからです。
架空の医学とお考え下さい。ファンタジーです。とはいえ、たとえ妄想であっても、意外なヒントが得られるかもしれません。
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「医学の対象は何かね」
『研究費の取り方、じゃなくて病気です』
「そうじゃ。健康ではない」
『たーしかに確かに』
「健康な状態は、一人ずつ違っておる」
『体重も、骨太の人とか、いますからね』
「自分の健康を知っとるのは」
『やっぱ仙骨かぁ』
もちろん、現代医学を否定するわけではないのです。でも、ヨガや整体など民間治療からカウンセリングに催眠、ヒーリングまで多くの選択肢があるのも昨今は現実。
体を預けるため、多くの情報から慎重に選ばなければならない時代。結果が出てからでは遅い。すべて自己責任となってしまいます。
そこで【在り方革命】は、まずご自分の仙骨に尋ねることを推奨するのです。
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「アタマは本来、判断する機能ではない。情報を蓄えておくデータバンクなのじゃ」
『なるほど。だから情報収集して、より多くの選択肢から判断すればいいのですね』
「逆じゃよ」
『へ。逆とは』
「判断してから情報じゃ」
『えぇぇぇぇ~わかりません』
「仙骨が導いてくれるという在り方じゃ」
『そっか。そういうことにしちゃう』
「脳の情報処理は在り方に従う」
『畏まりました。仙ちゃーん』
まず、読むだけの処方箋を。三つの言葉で、ご自分の体と対話なさって下さい。
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『ふぅ。なんか落ちついてきました』
「心の原因を探る準備作業じゃ」
『腰痛。腰って、体の要=中心ですね。そうか。生活する基盤は、やっぱお金。後は境遇への怒りや、踏み出せない不安とか』
「ほぉ。スッと浮かんできたか。よろしい」
『肩凝りって、うん、重荷ですね。責任を感じてるっていうか。結果に怯えてる』
「花粉症は、誰かと別れることへの怖れ。死別。そんな感覚が浮かんだ人もおる」
如何でしょう。ご自分の仙骨と対話なさってみては。ゆっくりと息を吐いていけば、意識は中心へと下がって参ります。
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「原因に気づけば、ゼロに戻る」
『ゼロになると、どうなります』
「痛みや症状が不要となる」
『え。それだけで治っちゃう』
「うむ。治るという在り方じゃからな。在り方に応じて、脳は情報処理を変える」
『え。ど、どういうことでしょう』
「ストレッチの本が目につくとか、鉄分のサプリを呑みたくなるとか、もちろん医者や整体に行くのもよいが、まず在り方じゃ」
『在り方が変わらないとダメかぁ』
「一時凌ぎで、また元に戻る」
『薬が強くなって、手術とか』
「イヤな相手はスルーしても、相手と場所が変わって、同じことを繰り返すじゃろ。真の原因が自分の中に残っておるからじゃよ」
『自分の影から逃げるようなものですね』
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