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「人に無能力のレッテルを貼ることで、自分の万能感を相対的に上げる」→「価値の搾取」を描いた「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」を読んで欲しい。

 久しぶりに宮崎夏次系の「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」を思い出して読んだ。

「相手に何もやらせず、無力感を与える」
「無能であるとレッテルを貼る」
「主体性を乗っ取る」
 そうすることで「無能な相手を助けること、代わりに色々やってあげること」を自らの居場所にしたり、相対的に自らの有能感を上げる手法を「価値の搾取」と呼んでいる。

 大多数の親はどのタイミングでどの程度子供に干渉するか、どの程度自主性に任せるかを、子供のことを考えながら試行錯誤していると思う。
 ただ「保護者ー被保護者」関係性を利用して、子供から「有能力感」を搾取する人間もいる。

「夢から覚めたあの子はきっと上手く喋れない」は、親から子への「価値の搾取」の最も悪質なパターンを描いた話だ。
 相手を無能力な立場に追い込み、相対的に自らの有能感を上げるとはどういうことなのか、なぜそんなことをするかがわかりやすい。

*以下ネタバレ感想。

 物語の主人公は不登校気味の小学生・しおり。
 しおりの家の隣りには、酸素ボンベと車椅子が手放せない男の子が住んでいる。
 その子は夜になると全裸で屋根の上にいる。
 しおりは男の子と話したことはない。
 だが、男の子が母親から強いられている「体が弱い設定」をなぜ受け入れているのかわかっている。

(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社) 

 いいにおいのお花も流れる穏やかな時間も、あの子が病気だからあるんだ。
 あの子は、弱い者無しにこの家が成り立たない事を知っているんだ。

(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社/太字は引用者) 

 さらっとした言い方だが、恐ろしいことを言っている。
 しおりが男の子の状況がわかるのは、自分も「弱い者」にされているからだ。
「弱いー強い」「無能ー有能」は相対的なもの(比較)なので、「強い・有能」という幻想を持ちたい人がいる場合は誰かが「弱い・無能」を引き受けなければならない。

(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社) 

 しおりたちが「無能のレッテル」を拒絶すれば、相対的に成り立っている「親の自己像」が崩壊する。それはいまかろうじて成り立っている家族の崩壊を意味する。
 男の子は自らが犠牲になることで、親を支え家族を成り立たせている。(やることを与えることで、親の無力感を払拭している)
 しおりは自らが犠牲となって、家族を支える男の子を尊敬する。

(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社) 
(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社) 
(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社) 

 隣人よ、耐えろ。
 私達は生まれる場所を選べない……。

(「夢から覚めたあの子とはきっと上手く喋れない」宮崎夏次系 講談社)

 しおりも男の子も、今いる場所から逃げることは出来ない。自分自身のできることで居場所を守るしかない。
 それが自分を犠牲にすることであっても。

 この話がいいなと思うのは、終始子供の視点であるところだ。
 しおりと男の子は言葉を交わさず交流もしない。だが、お互い同じものを抱えていることを知っている。
 大人が自分たちを喰い物にしていながらそのことに気付いてすらいないことも、そのことを自分たちがどうすることも出来ないことも知っている。
 ただひたすら耐えるしかない。
 そういう思いを、二人だけは共有することが出来る。

 男の子もそれを知っているから、親の自己像、家族という幻想を支えるために、表に出すことが出来ない本来の自分の姿をしおりにだけは伝える。 
 己の身勝手さ、残酷さに鈍感な大人たちからは見えない場所で、密やかに息づいている子供たちの連帯がいい。

 言葉で説明すると核心が伝えられないもどかしさがある。
 宮崎夏次系の奇妙さと可愛らしさを合わせ持つ絵柄、独特の空気感があってこそ成り立つ話なのだ。
 凄く好きな話なので、ぜひ多くの人に読んで欲しい。

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