ひぐちアサ「ヤサシイワタシ」の二種類の読み方。
*ネタバレ感想です。未読のかたはご注意ください。
ひぐちアサ「ヤサシイワタシ」全二巻を読んだ。
この話は二種類の読み方が出来る。
二種類の読み方とはどういうものかと、それぞれの感想を語りたい。
◆ストーリーの肝になるのは「弥恵はなぜ死ななければならなかったのか」という疑問
「ヤサシイワタシ」がどういう話かは、前半のヒロインである弥恵が死んだ理由に集約されている。
大事なのは「弥恵はなぜ死んだか」ではなく「なぜ、死ななければならなかったのか」なところだ。
弥恵はどういう人物か。
複雑な背景やそこから生まれる性格や言動など具体的な部分はおいておいて、弥恵という女性が持つ要素のひとつひとつすべてに自分はリアリティを感じた。
自意識過剰な言動も、その場にジッとしていられないエネルギーも、自分は周りとは違うという傲慢さも、それがちょっとしたことで劣等感に転倒する浮き沈みの激しさも、自分のことに精一杯なための視野の狭さも、弥恵は同じ年代の時に自分が抱えていたり、周りの人が持っていたものをすべて備えている。
「自分は何者にでもなれると信じられる最後の瞬間」
弥恵はその輝きを具現化したキャラなのだ。
自分の可能性を信じて、あちらこちらに飛び回る弥恵に対して、就職することを決めた新城は「お前はまだなんにでもなれるつもりだろーけど、スタートがおせえだけだぞ」と嫌味を言い、弥恵が死んだ後に弓為は「自分が就職活動してみてつくづく思うけど(略)万が一アレが認められちゃったら、まっとうにやっている人間はたまんねーよ」と言う。
トラブルメーカーで他人から白い眼でみられがちな弥恵を、それでも写真部の面々が受け入れ、「スキっつうよりきらっちゃったらこっちの負けとか思って」離れられないのは、弥恵が彼らにとって社会に出る時に手放さざるえない自分自身の一部(を体現したもの)だからだ。
自分も読んでいる時、「側にいたらちょっとうざったいかも」と思いながらも、弥恵のことを嫌いになれなかった。自分がかつて持っていたもの、自分の周りの人たちが持っていたもの、なくなってしまったもの、懐かしいものを思い出させてくれるからだ。
◆「ヤサシイワタシ」は社会に入る寸前の通過儀礼の話
「ヤサシイワタシ」は一読すると、大人になる過程で自己の一部を失うことで成長する通過儀礼の話に読める。
弥恵は作内で何度か「子供」と指摘されている。(父親に一体化されてしまっているために『一人の人間』として生きるのが困難になってしまっている)
暗室を水浸しにしてしまったり、人の心に土足で踏み込んで温厚な弘隆をイラつかせたり、自分のことばかり喋って弓為をうんざりさせたり、周囲にお構いなしに空気を悪くして安芸を怒らせたり、男と簡単に付き合ってうまく別れられなかったり、依存性のある薬に手を出したりなど、社会性がほとんどない。大人になることができない人だ。
通過儀礼の話では、社会にコミットできない人物は死ぬ。
その人物が死ぬことで他の登場人物たちは「喪わなくてはいけない自己の一部の喪失」を経験し、大人になることができるのだ。
「不安なのは願うからだろ」と言うように、「ヤサシイワタシ」において不安と願いはワンセットだ。
弥恵は不安をずっと抱えていたために、自分で自分の傷を作るように振る舞い、悲観的でいつも崖っぷちに立っているような顔をし、自分のことで精いっぱいになってしまう。
弘隆も不安を抱えたままでは、立っているのもやっとになってしまう。今でさえこの状況なのに、願い続けたまま社会に入っていくのは困難だ。
物語のテーマ的にも、作内の現実で考えても、弥恵と一緒にいれば二人とも不安に潰されて社会に出れなくなってしまう。
弥恵はそれがわかっていた。
かと言って、一人で社会に出ることができない。(結局は自分を傷つけるような振る舞いをしてしまう)
だから死を選ばざる得なかった。
自分がとりあえず大人になったからか、通過儀礼の話は事細かに描かれると心にくるものがある。
弘隆が言うように「みんながあの人を許容してくれたら」いいし、弓為が言うように「そのまんま認めてやってもいいのに」
そうできればいいのだが、それを抱えて生きれば常に崖っぷちで立っているのもやっとになってしまう。
◆「通過儀礼の話」としてだけ読むと、辻褄が合わない箇所がある。
↑のように「社会に出るための通過儀礼の話」として読むのが、フラットな読み方かなと思う。
ただ「ヤサシイワタシ」は、「通過儀礼」のような多勢の人間が関わる話だと考えると微妙に辻褄が合わない箇所がある。
・弘隆はどんな理由で、なぜ弥恵を好きになったのか。
・弥恵が死んだ理由に、弘隆がこだわりを見せないのはなぜか。
・澄緒に対して、「弥恵が死のうとしていたと知っていたとしても止めない、止める理由がない」と言ったのは何故か。
・弘隆は弥恵に対しては「人に支配されたがっている」と言うのに、なぜ自分は、「引っ越そう」という弥恵の無茶ぶりにすぐに従うのか。
この辺りの弘隆の心境が謎だった。
弘隆は表情を変えることもほとんどなく、自分の心情をほとんど語らない。
だからその時何を感じているのか、作内でどういう風に心境が変化しているかがわかりにくい。
弥恵との関係も、弥恵の押しに負けて付き合った形なのに、特に心情の変化が語られることなく、いつの間にか弘隆のほうが弥恵に執着している。
弥恵に対しては「自分を大切に扱う人と付き合え」と正論を言うのに、弘隆自身はなぜ自分のことを雑に扱う弥恵と付き合っているのか。
凄く不思議だった。
◆弘隆の中では「弥恵はテニス」である。
弘隆は弥恵に接する時、その場の状況にそぐわない表情をしている時がある。
例えば「仕送りを少なくして、もっと安い場所に住め」と言われた時は
この表情だ。
胸チラをさせて頼み事をする恋人に対する表情とはとても思えない。まるで戦闘前の兵士である。
また再会した弥恵に「俺と一緒にいれば?」と伝え見送った後は、
この表情だ。
弥恵が断ることを知っている……どころか、この後死ぬことを知っているようにさえ見える。
ここで思いついた。
弘隆は弥恵がこのあと死ぬことを知っていたのだ。
だから遺書の内容にも、弥恵が死んだ理由にもさほど興味を持たないのだ。弥恵がなぜ死んだか……というより、なぜ自分の前から消えるのかを、弘隆は知っていたのではないか。
一体なぜ、弘隆は弥恵にこんなにのめり込み、執着するのか。
二巻の冒頭で、二人の関係が別れる寸前まで行ったとき、弥恵が弘隆に「あたし、あんたの何?」と聞く。
弘隆にとって弥恵はテニスなのだ。
だから「仕送りを断れ」「安いアパートに引っ越せ」という、理不尽に思える弥恵の要求に、試合の時のような真剣な顔をして応えるのだ。
弘隆はテニスのためならば、歩けなくなるまで股関節の痛みを我慢する。骨折するまで筋トレをする。テニスが要求することには際限なく、限界まで応える。
「できないのとやりたくないのは一緒」だから「できない」と認められない。
話を細かく読み返すと、弥恵にアパートに引っ越すように要求された時、車いすの学生を受け入れるかでもめた時、弥恵を失った心境を澄緒に話す時、弘隆はテニスの経験と弥恵の話をまぜこぜにして話す。
弥恵の内面について、批判をしたり、語ったりするときに、弘隆は常に弥恵のほうを見ずに下を向いて話す。
上述したように、その内容は「弘隆も自分を雑に扱う弥恵と一緒にいるのでは」「弘隆も自分を支配する弥恵といたがっている」という風に、弥恵のことを語る態を装って、弘隆自身のことを話しているのではと思えることばかりだ。
そして最終的には「弥恵の不安を取り除いてやりたかったのは、自分自身が不安だったからだ」と弥恵の中に自分自身を見ていたことを告白する。
弥恵が死んだあと、弘隆は弥恵の名前をほとんど口にしない。呼びかけは「あんた」であり話の中では「あの人」である。
この呼びかけが、弥恵に対してのものならば不思議だ。
弥恵は既に死んでいるのだから、「あんた、死にたいんじゃなくて」ではなく「死にたかったんじゃなくて」になるはずだ。
これは「テニス=弥恵」と決別し、その決別したテニスを内包した自分自身に語りかけているからではないか。
◆テニスという夢を失った弘隆の、絶望からの再生のストーリー
弘隆は、弥恵(=テニス)とこの先の人生を共に出来ないことを知っていた。
澄緒が指摘するように、「全部終わった」からだ。
どれほどテニスに自分のすべてを賭けたのだとしても、どうしても諦めきれないのだとしても、それはすべてもう終わったことなのだ。
テニスがもう出来ないなら、死ねばよかった。
それでも「テニスという可能性を断たれた自分」として生きていくしかない。
弘隆は徹頭徹尾、「自分にとってテニスとは何だったのか」という話しかしていない。
それがかなわないなら自分の人生など何の意味もない。死んでも構わない。
そういう絶望からどう立ち上がり、その後の人生を生きていくか。
その内省と自己葛藤の行く末を描いた話なのだ。
自分の内部でテニスが死んだあと、その絶望の淵から見えたのが「写真=澄緒」である。
澄緒は「父親が別の家庭を持ち、家に帰ってこない」という弥恵と同じ問題を抱え、その問題の答えを目の当たりにする、弥恵が死んだ時の心境を弘隆に話すなど、「テニスー写真」の軸では弥恵と対比する存在でありながら、弥恵と共有する部分も持っている。
澄緒の存在が、弘隆がこの後スポーツ(テニス)の写真を取りながら生きていくことを表しているのかなと感じる。
◆まとめ
この話が凄いと思ったのは、↑の二つの読み方が重なり合って同時に読むことでひとつの話になっているところだ。
弘隆は未だにテニスのことで頭がいっぱいであり、弥恵に執着し、「安心させること→すること」で一緒に生きようとしていた。
その一方で、テニスのことは諦めなければいけないとわかっている。だから弥恵が死ぬとしても自分は止めないこともわかっていた。
そして弥恵のことが本当に好きで、一緒に死んでも構わないと思っていた。
文章で弘隆の心境を追うと、弥恵とテニスを入れ替えても心境が通じてしまう。
弥恵が死ぬことで、弘隆はようやくテニスと決別することができた。弘隆がテニスと決別して新たな人生を歩むために弥恵は死ななければならなかった。
弘隆にとっては、テニスを諦めて新しい人生を歩むのは恋人が死ぬほどの喪失感なのだ。
それほどの痛みをもたらす喪失からでも、人は再生することができる。
そういうことが伝わってくる話だった。