「【推しの子】」とは何だったのか。
最終回を読んだ。
と書いてあるので、一読者である自分にとって【推しの子】とは何だったのか?を語りたい。
◆なぜ吾郎はアクアに生まれ変わったのか?
自分は【推しの子】で重要なのは、この問いに対する答えだと思う。
この問いにどう答えるか?で【推しの子】の読み方はかなり変わる。
「なぜ吾郎はアクアに生まれ変わったか?」
「生まれ変わりというズルを神(作品)が許した理由」それは「使命を見つけるため」だ。
ここで重要なのは、吾郎(アクア)本人が「自分が生まれ変わったのはズルだ」と理解していることだ。世界の法則性ではありえないこと(ズル)を「自分の使命を見つけるため」という自己都合によってなしえた。
実際にこの世界における生まれ変わりはアクアとルビーにのみ許された「ズル」であり、他に生まれ変わった人間は出てこない(世界の法則性にはない)
【推しの子】は「世界の因果律によって個人が支配される話」ではなく、「吾郎という個人の思いが世界に反映される話」である。吾郎(アクア)のために存在する物語だ。
だとするとさらに疑問が出てくる。
「なぜ吾郎は、この物語を必要としたのだろう?」
吾郎が「『生まれ変わりというズル』をしてでも果たさなければいけなかった使命」とは何か。
妹であるルビーを守ることだ。
◆吾郎(アクア)の推し活は変化していく。
だが、最初にこの箇所を読んだ時は、まったく納得がいかなかった。
「吾郎が生まれ変わったのはアイのためだろう」と思ったからだ。
「アイを殺されたことへの復讐」というモチベーションが「ルビーを守るため」に切り替わったのはわかるにしても(これも唐突に感じたが)、生まれ変わり自体はアイを推し続けたいという思いのためだ。
吾郎(アクア)の思いによって起こった「生まれ変わり(ズル)」の理由は、生まれ変わった当初は「アイに対する執念が生んだ奇跡」だった。
アクアとして生きていく過程で思いが変化したにせよ、「生まれ変わり」自体はアイのためだったのだ(そもそもこの時点でアクアは、ルビーがさりなの生まれ変わり……さりなが生まれ変わっていること自体を知らない)
舞台編でアクアが泣く演技が出来たのも、アイの死を思い出してだ。
「生まれ変わりは妹を守る使命のため」というのは後付けが過ぎる上に、ストーリーの流れでも唐突すぎる。
そう思っていた。
だが少し考えて、「生まれ変わりの理由が、『アイ(推し)に対する執念』から『ルビー(推し)を守るため』に変わったのは、推す対象の変化ではなく吾郎(アクア)の推し活の変化が重要なのではないか」と思いついた。
163話の幻視の中で、吾郎はアイとさりなを同じくらい推している。
吾郎(アクア)の生まれ変わりの理由(使命)は、アイからルビーという推す対象の変化が重要なのではない。
「自分の執念」から「推しを守る」という推し方の変化が重要なのだ。
【推しの子】は、「吾郎が自分の中の推し活(推しとの向き合いかた)を変化させるために、必要とした物語」だったのではないか。
◆吾郎(アクア)は神木ヒカルになる可能性があった。
対して神木ヒカルは、アイを永遠に偶像化(アイドルに)するという「自分の執念」のためにルビーを殺そうとする。
メタ視点で見れば、神木ヒカルは「アクアのありえたかもしれない姿」であり吾郎(アクア)の一部である。
推しを自分の偶像として永遠のものにする、そのためには推し本人でさえ殺してしまう人間になる、アクアもそういう推し活に陥る可能性があった。
「ルビーを守る使命」が意味することは、「推しを偶像にするために人を殺すことすら厭わない。そんな推し活を、推しを見守ることで幸せを得る推し活に変えること」である。
◆吾郎(アクア)が生まれ変わってでも果たさなければならない「使命」とは何なのか。
作内の「世界」の観点で見れば、生まれ変わりは「ズル」である。
だが【推しの子】は「アクアの自己内面世界に強くリンクした物語」である。
そう見た時に「生まれ変わり」は、吾郎の身勝手な願望や都合によるものではなく、巨大な責任感から生じたものであることがわかる。
神木ヒカルという自己の悪性を殺さなければアクアは推し活を変化させることができない(推しを守ることができない)
だが「自己の悪性を葬る」ということは自分自身を殺すことでもある。
吾郎が「生まれ変わりというズル」を行ってでも果たさなければならないと思った使命は、神木ヒカル、つまり自分自身を殺すことだ。
自分が【推しの子】という話で一番面白いと思って惹かれるのは、「生まれ変わってでも自分を殺さなければならない」というパラドクスに閉じ込められている吾郎の精神性だ。
【推しの子】は、吾郎のこの暗く重い自己への忌避感とそこから生じる処罰感情によって編まれた物語である。
吾郎が感じている「自分の罪(悪性)」が具現化した存在が神木ヒカルである。
一番の問題は、カラス幼女が言うとおり、端から見れば不器用なほど優しく責任感が強い吾郎(アクア)が、なぜ「自分は本質的には神木ヒカルのような存在だ、だから殺さなければいけない」と思い込んでいるかだ。
【推しの子】で不満があるとすれば、神木ヒカル(自己の悪性)とのガチの対峙まで踏み込まなかったことだ。神木ヒカルの小物ぶりを見ても、避けた節が否めない。
「生まれ変わってでも殺さなければならない自分」があんな小物のはずがない。
「そこまでやったらエンタメじゃなくなる」というのもわかるが、自分はそこまで見たかった。
……見たかったな。
◆余談:他キャラについて
さりな、ミヤコ、壱護社長が特に好きだった。
ミヤコの母親としての成長ぶりはほんと良かった。アクアの葬式シーンは、かなの気持ちもわかるしミヤコの気持ちもわかる。アクアが死ななければならなかったのもわかる(辛)
ヒロインたちも全員良かった。あかねがアクアを理解できるからこそ、アクアはかなを選んだのは納得感が凄い。
アクアはかなでいいんで、If設定でごろさりの話を出してくれないかなあ。