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「【推しの子】をどう読んだか」をもう一度整理しながら、この物語のどこが好きかを語りたい。

 ↑で「自分が【推しの子】をどう読んだか」を書いたが、もう少し整理しておきたい。


◆【推しの子】は「ご都合主義の物語」である。

 最初に【推しの子】を読んだ時から、これは「吾郎が必要としたから存在する、吾郎の内面世界に強烈にリンクしたストーリーだろう」と感じていた。

 作内現実が吾郎の妄想でてきている、というわけではなく、「読み手である自分たちが観測しているストーリーは、吾郎が必要としているから存在するストーリーだ」ということだ。

「推しの子」163話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 163話の幻視のような「【推しの子】の現実世界では存在しない、吾郎の内面しか存在しないもの」を読み手が観測できるのはそのためだ。

【推しの子】の作内世界は、「現実世界」と「吾郎の思いが反映している世界」が重なってできている。
 後者のルールが前者よりも圧倒的に強いので「現実のルールよりも吾郎の思いのほうが作内に強く作用する」

「推しの子」162話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 アクアと同一人物のはずの吾郎が、この瞬間だけ分離して「現実の存在」である神木ヒカルを殺せたのはそのためだ。

【推しの子】で最も上位にくるルールは、「吾郎の思い」である。
 このことを踏まえて読むのが「『物語の枠組みに沿った読み方』だろう」というのが自分の意見だ。

「キャラの思いひとつで『生まれ変わり』なんていう超常現象が出来るなんて、超ご都合主義じゃないか」
と言われるとその通りだ。
【推しの子】は、「吾郎の都合」で出来上がっているご都合主義の物語だ。

 では「吾郎の都合」とは何か。
「推しであるアイの息子になって愛されたい」という願望か。
 本来であれば「ご都合主義」という言葉には、「本人にとって都合がいいこと」という含意がある。
 しかし「吾郎の都合」は、一般的に考えられる願望や特権など社会的な利益ではない。 
 前記事で書いた通り、吾郎が望んだことは「自分自身を殺すこと」だ。


◆吾郎は自分(神木ヒカル)を殺すために、アクアに生まれ変わった。

「推しの子」164話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 このシーンであかねは「自分も死んでしまった」ではなく「自分も殺した」と言っている。
 アクアは、神木ヒカルを殺すために自分の命を犠牲にしたのではない。「自分を殺すこと」も目的のひとつだったのだ。

 前回の記事でも書いたように、吾郎(アクア)と神木ヒカルの同一性はとことどころで示唆されている。

「推しの子」160話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 アクアと神木ヒカルは親子なので「同じ目をしている」のは、本来指摘するまでもないことだ。
 ではなぜあえて「同じ目をしている」と指摘するのか。
「親子であるから目が似ている(同じ)」という「現実的な当たり前のこと」を超えて、文字通り「(二人が)同じであること」が重要だからだ。
「目」という媒介を通して、アクアとヒカルは同一性を持つことを示唆している。
 神木ヒカルは「吾郎が生まれ変わってでも、殺さなければならないと思っている自分」である。吾郎の主観世界ではそうとらえられるべき人間なのだ。

 だがここで疑問が出てくる。
 もし【推しの子】が吾郎の主観がストーリーに最も強く反映されるというルールがあるならば、なぜ吾郎は神木ヒカルを即座に殺すことができないのか。
「神木ヒカルを殺すことはアクア自身を殺すことだ。だからできない」わけではない(実際に、アクアは最終的に自分=神木ヒカルを殺す決断をしている)
「吾郎の主観世界」において「神木ヒカルを殺す」とはどういうことなのか。神木ヒカルとは何者で、どうすれば殺せるのか


◆「母親を救うためには自分自身を殺すしかない」という苦しみ

【推しの子】の一番奥底に眠るストーリーラインは、「自分を出産すること(愛すること)で母親が死んでしまった。その罪の意識に苦しむ吾郎が、母親の死の原因である自分自身を殺すことを望む」というものだ。

「推しの子」9話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 アクアの母(吾郎の二度目の母)であるアイは、腹部を刺されて出血しながら、アクアとルビーに「愛している」と言って死ぬ。この状況は出産とイメージが重なる。
 吾郎は「自分が母親から生命(愛情)を受け取った瞬間に、母親が死ぬ」という運命を二度繰り返している。
 吾郎の(生まれ変わり前の)母の死は吾郎を出産したことが原因だし、アイを殺した首謀者は神木ヒカル(≒吾郎)である。
「母親を救うためには、その原因である自分自身を殺すしかない」
 吾郎(アクア)のこの考えが、【推しの子】のストーリー(観測された世界)を作り出している。

 吾郎は、アイに対する妄執を持つ自分自身(神木ヒカル)によって殺された。そして(無意識下で)母を守るためにアクアに生まれ変わった。
 しかしまたしても、母親を殺されて(殺して)しまう。
 そして母を殺した犯人(神木ヒカル)に復讐を誓う。
 しかしこの「母を奪った相手への復讐(という妄執)」こそが、吾郎自身の悪性(神木ヒカル)なのだ(『母を奪った相手』が実は自分自身である、と考えると吾郎が陥っている状態のキツさにウッとなる)
 つまり復讐の気持ち(母に対する執着)を持ち続けるうちは、吾郎は神木ヒカルを殺すことはできない。
 吾郎の主観世界では、神木ヒカル(推しへの妄執・自己の悪性)は存在し続けるからだ。

「推しの子」161話 赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社
「推しの子」赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

 吾郎は神木ヒカルと同じように、母親(推し)に対して「あるべき姿」という幻想を持っている
 この妄執(悪性)を持っている限り、吾郎は「あるべき姿を推しに押しつけるために推し本人すら殺す神木ヒカル」になってしまう。その可能性を持ち続ける。 
 吾郎自身は自己の中の神木ヒカルに自覚的である。だから「母親を殺したのは自分ではないか」という罪悪感に苦しむのだ。

「推しの子」赤坂アカ×横槍メンゴ 集英社

「復讐」という妄執に囚われているうちは(こうあるべきだという推し方をしているうちには)、吾郎はこのループ(自分自身)から逃れることができない。
 復讐というモチベーションで神木ヒカルを殺せば、その妄執は来世に持ち越される。
 吾郎は再び生まれ変わり母親を殺され、母を殺した自分を殺さなければならなくなる(ルビーの息子に生まれ変わるんじゃないか説があったが、たぶん復讐で神木ヒカルを殺した場合はそうなると思う。そして生まれ変わった神木ヒカルにルビーを殺される)

 そのことに気付き、アクアは「愛し方(推し活)」を「推しに対する執念(復讐)」から「推しを守ること」に変化させる。
「母に対する妄執」を捨て去った時点で、推しは母とは限らなくなる。そのためアイとさりなを同じくらい推すことができる。
 
推し活を変化させることで、ようやく自分自身の悪性(神木ヒカル)を殺し、推しを守ることができたのだ。


◆さりなが生まれ変わったのは、「妹(母とは別の推し)を必要とする」という吾郎の都合によってである。

「吾郎が必要とした吾郎のためのストーリー」において、なぜさりなだけが吾郎と同じように生まれ変わりという「ズル」ができたのか。
「さりなが可哀想だから」という理由だけなら、さりなが死んだ直後に生まれ変わらせるはずだ。
 これは吾郎が妄執から逃れるために、アイ(妄執の対象である母親)以外の(守るべき)推しを必要としたからだ。
 さりなは吾郎と同じ「推し(母=アイ)」を持つ。吾郎にとっては精神的に妹である。
「同じ推し(母)を持つさりなは、自分の妹である」という吾郎の主観が現実に作用したため、さりなは吾郎(アクア)の妹として生まれ変わったのだ。


◆【推しの子】は、「自分の中の悪性(妄執)」から逃れるにはどうしたらいいかを描いた話である。

【推しの子】は自己の内面の牢獄(妄執)からどうやって脱出し、理想の推し方(愛し方)で推しを推せるようになるか(人と関われるようになるか)という話である。
 吾郎の内部に存在する、自己嫌悪と処罰感情で作られた牢獄は余りに強固だ。だからこそそこから脱出しようとする力が、物語に大きなエネルギーを与えているのではないか。
 そう思いながら読んでいた。

 魅力的なキャラたちが芸能界という場で織りなすエンタメ作品としても、とても面白かった。
 子役編、リアリティーショー編、舞台編、アイドル編、どれも好きだった(特に舞台編が良かった)
 ただ自分が【推しの子】に惹かれたのは、自己の悪性への葛藤という要素があったからだ。これがなければ今の五分の一も興味を惹かれなかったと思う。

 それだけにこのテーマをもう少し正面から描いたものが見たかった(見たかった。二回言う)
 ここをきちんと片をつけられれば、かなとのハッピーエンドもありえたのではと思うが、そういう気持ちはおいておいても十分面白い物語だった。

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