18/08/2020:『Pawky』
「適当にあしらってばかりいると、そのうち本当に適当な人間になってしまうわよ。そして、どこかへ追いやられて最後は1人で畑を耕すことになるの。わかる?」
僕らは終点の駅で降りて、北へ15分ほどのところにある神社にきていた。レンタルした自転車を駐輪場に停めると、そこから杉の木が両側から影を作る境内の道を歩いた。お参りを済ました後で少しぶらぶら歩いていると、裏手にあるちょっとした昔の涼み池を見つけて、そこでは参拝者が水に足をつけていた。
きっと山から律儀に流れてきている水なのだろう。真夏の日に晒されても、身体中の血管が締まりきるくらいによく冷えていた。
「僕らは畑を耕すのかい?」
と、僕は聞いた。彼女は靴下を丸めて、足を片方ずつ水に浸していた。
「畑を耕すって言うのは比喩。そして”僕ら”じゃなくて、”僕”。あなた1人。」
と、言った。落ち着いた話し方と誠実そうな眉毛。ネイビーのワンピースは丈が丁度よくて、だから余計に目を惹いた。髪をかけた耳にはクリスマスツリーの電飾のようにたくさんのピアスがついていて、それはシンプルに言えば、ロックだった。
水面に反射する日の光が、杉の木の影と重なり合う。境内の裏にはさらさらと音を立てながら風が吹いている。
彼女は浸していた足を上げタオルで拭くと、僕にそのタオルを渡してきた。
「ありがとう。」
と、僕が言って受け取った時、彼女のピアスが少し揺れた。
・・・
大学はもう夏休みに入っていて、いつも以上に時間のある僕は朝から晩まで図書館で本を読んでいた。ゴールデンウィーク終わりに14巻もある大河小説に手を出し手から、やっと5巻目入るところだった。註釈がやたら多い作品で、読み進めるのにも時間がかかっていたし、また頭の中だけで整理しきれないほどの説明文は、逆に背景をイメージできなくさせた。だから、人が少なくなった図書館の4人掛テーブルいっぱいに資料やら地図やらを広げて、多角的に時間をかけて読んでみることにした。実家に帰るつもりもなかったし、旅行へ行く気もなかった。もてあそんだ夏休みと、自主課題。
「すみません、そろそろ閉館です。」
5時前に彼女は僕の前に現れた。あまりにも静かに近づいてきていたので、声を書けられた時、
「うぉわい。はい。」
と、情けない応対をしてしまった。
「あ、でも貸し出しはまだ大丈夫ですか?」
と、聞くと、ギリギリまだ受付しているらしかったが、
「でも、明日もいらっしゃるんでしょう。なら明日またここでご覧になるのはどうですか。」
と、彼女は言った。それもそうだと思って、その日は本と資料を元の場所に戻して帰った。
閉館を知らせるオルゴールの音楽が、小さく流れ始めていた。
・・・
真夏でも朝の4時ではだいぶ涼しい。時々足元の雑草が朝露を含んでいて、歩くたびに土に汚れた長靴を綺麗にしてくれたりする。畑の状態はまだ太陽が山の向こうにある段階から見て回らないといけない。その時しか彼らー土、草、野菜などの畑を構成する全ての要素たちーは、本当の姿を見せてくれないからだ。この作業は雨が降っていても必ず行わなければならない。土曜日も日曜日も、二日酔いも寝惚け眼も関係ない。毎朝、必ず。そして、それは夏に限ったことではなくて、冬には冬で育つ作物があり、彼らだってその居住環境を整えて行く必要がある。要するに、毎日に輪をかけた毎日が、その行程に従事されていく。
「どうしてそんなん詳しいんだい。」
「実家が農家だから。以上。」
太陽が雲に覆われて、僅かに過ごしやすさを増した。水辺には今、なぜか僕らしかいなくて、初めて彼女と話した閉館間際の図書館みたいに静かだった。
「あなたにはそれができる?来る日も来る日も、繰り返す。死ぬまで。と言うか、それを止めることは死を意味するんだけど。」
「でも、畑は比喩だって、さっき。」
彼女のピアスたちが光った。
「人間関係というものと、畑と作物、孤独な農夫の毎日は非常によく似ていると思うの。」
足の指で水を弾いた。
「どんなところが?」
僕は彼女が渡してくれたタオルを何度も畳んでは広げていた。
「1人では、とてもやっていけない、というところが。」
適当にあしらっていると、畑は乾き、作物は腐る。農夫は痩せ細りやがて死んでいく。小屋の中で死んだとしても、あるいは畑の中で息が耐えたとしても、農夫はただそこに横たわって、時代が彼の体を風化させていくまで誰にも見つかることはない。
「どうしてそんなことを僕に言うんだい。僕はそんなに適当に見えるかな。」
と、聞いた。だって、とても驚いたし、少し心外だったから。
「なんでかしら。ただ、そう思ってしまったの。でも、もしかしたら、それは私のことなのかもしれない。私が私自身に言い聞かせるために、一度あなたに言ってみた、ということなのかしら。ごめんなさい。」
水面は2人の緊張をほぐすような優しさで揺れていた。杉の木が囲む境内の裏側。雲に隠れていた太陽が出てきて、光が池の向こう側からゆっくりとこちらへ向かって広がってくる。
「ううん、そんなことないさ。」
と、言って、僕は彼女にタオルを返した。
そのまま手を握ろうかと迷ったけど、その時、さっき通り過ぎた風が戻ってきたかのようにまた、さらさらと吹いた。
そして、彼女のピアスが水面に光って見えた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Dorothy Ashbyで『Pawky』。