12/08/2020:『Old Folks』
A 道
背中をほとんど90度曲げて歩く彼女は、一体何を感じながらその歩を進めているのだろう。下に見えるのはコンクリートや砂利、側溝を塞ぐ蓋、雑草とたんぽぽ。別に前を見たところで大したものがあるわけではないけれど、それでもただ真下を見ながら歩くのとは大きく違うと思う。
「空とか見ないのかなぁ。だってこの町で青いのは空だけなのに。」
僕はそんな老婆の歩く背中を見るたびに、いつも1人で呟いていた。
二車線の県道は途中枝分かれしながらも、ずっと市役所の方まで伸びている。寺やグラウンドが左右に見えたり、踏切を1つ超えたりして、町まで続く。僕は小学校までこの道を毎日歩いていた。
薬局を過ぎたところにある古い家には、おばあさんが1人で住んでいて、いつも庭の畑で何やら仕事をしていた。本当のところ、それが仕事だったのかどうかは分からないけど、それでも田舎の年寄りは皆往往にそうやって暮らしていた。
背中を曲げたまま、背丈と同じくらいまで伸びた蔓から野菜を取ったり、手押し一輪車で砂を何かを運んでいたりした。自分の目線と同じ高さの物を収穫をする姿は古代の人が神様に祈る姿に似ていた。そして一輪車を押す様は、その車高と一体化して小さな橇に見えた。
「おばあさん、手伝おうか。」
と、声をかけたことがある。秋が深まって、空に薄いカーディガンみたいな雲が広がる午後だった。
「いいよ。それより早くお家に帰んなさい。」
と、彼女は言うとそのまま作業を続けた。
その時もうまく彼女の顔は見えなかった。
・・・
B 洗濯場
入り組んだ路地裏を歩いていると、どこからか水の流れる音が聞こえた。石畳と白く塗られた土壁は太陽の光を反射して、直接日が当たらない路地まで等しく明るくしてくれる。僕はそのまま丘の上まで歩いていった。
適度に仕事をして給料の半分以上をそっくり銀行に預けながら5年間が過ぎた。大きな買い物はそこそこー車や高級腕時計は買っていないーに、特段激しい恋愛なんかにも巻き込まれることなくやってきた。
「自分で全部しようとするからよ。つまり、あなたは誰も必要としていないの。それも、深く深く、本質的な部分でね。」
その結果、僕に残ったのは、清潔に保たれた2LDKのマンションとドイツ製のピストバイク、そして壁一面の本棚だけだった。誰にも頼ることなく今まで生きてきたことを誇りに思うと同時に、誰にも寄りかかることができなかったことは僕の心の裏側に小さな空白を生んだ。
「少し休憩しないと。」
そして、僕はこの国に来た。
小さな講堂に似た建物の横を通る。そこで水の音が大きくなる。中からだ。それに合わせて人の笑い声や歌も聞こえてきていた。木でできた大きな扉は開けっ放しで、そのまま中へ入ると、ぐっと涼しさを感じた。床は湿っていて、奥の方はひらけているのであろうか、風と光がそっちの方向から見える。
「あら、洗濯物?今日はもう終わっちゃったのよ。」
「クリーニング屋さんなんですか?」
丸々と恰幅の良い女性が4、5人。1つの面が斜めになったプールの前で服を洗っている。
「そんなもんじゃないわよ。洗濯だけ。こうしてここで手洗いしてるの。」
奥のスペースは半テラスになっていて、入り組んだ路地裏の中でその目の前だけが何にも視界を遮られずに海まで見渡せる。横の方に20mくらいの紐が掛かっていて、そこには洗い終わった衣服やシーツが豪快に干されている。
みんながみんな黒いワンピースを着ていて、中には頭にも黒いバンダナを巻いている人もいた。
「独り身の年寄りだけが集まって、こうして仕事をしているのよ。昔からずっと。本当の昔からね。」
波状に削られたプールの面に服を打ち付け、擦る。石鹸の匂いが風に運ばれて、時折飛ぶシャボン玉が黄色と青色の混ざった色に光って割れる。
僕はベンチに座って、後ろから彼女たちの仕事をしばらく眺めていた。水槽から水が溢れて、僕の足元まで届きそうだ。
つま先で少し触れて、あとは気にしないことにした。
・・・
C 酒場
夜勤の看護師の間で、病棟および患者にまつわる霊やら魂などの話は割と一般的なレベルにまで浸透しているらしく、彼女は何の気なしに話してくれた。
雨が降った6月の夜は人通も少なくて、店内にも客はちらほらとしかいない。僕は棚のボトルを一列ずつカウンターに出して、少し掃除をしていた。人気の銘柄に比べて出番のないボトルたちは少し誇りをかぶっていて、彼らを一度リセットさせる。平日の早い時間。浅い夜。
何度か店に来たことがある彼女は、特に気にすることなくその作業を眺めながらミントジュレップを飲んでいる。
「人は亡くなると、何グラムか軽くなるって言うわよね。」
「聞いたことがあります。21gでしたっけ?そんな映画もありましたね。」
映画は見たことなかったが、何と無く記憶に残っていた。
人が最後に失う重さ。
「昨日亡くなったおばあさん、私が担当だったの。おとといまでは普通に元気だったんだけどね、その日の朝に急に容態が変わって。発作とかってわけじゃないんだけど、ただ坂を下り始めたって感じで。」
「そうなんですか。」
ボトルを磨くついでにキャップを開けて、香りも確かめる。いくらウィスキーだからといっても、残り少ないまま放置されているものは酸化していたりする。僕はもう一杯分もないボトルをテイスティンググラスに注いだ。何度か回して香りを確かめる。口に含むと、アルコールが気化して鼻に抜けた。
「その時に、見えたのよ。「ふっ」と体から抜けるのが。何色かはわからない。白と言われれば白、黒と聞こえれば黒。でも、体から抜けたの。「ふっ」とね。」
僕はグラスを置いて、向こう側の壁を見た。クリーム色の壁に模写がいくつかかかっている。暗い照明の下では、本物よりも生々しく見える。
「そのおばあさん、家族の面会があまりなくて、いつも1人で本を読んで過ごしていたの。「もう会いたい人には会って来たし、あるいは会いたいと思ってもすでに死んじゃってる人もいるからね。だから、こうして本の中の人たちに会うだけで十分だわ。」とか言ってた。」
「そうですか。」
僕の魂が抜けていく時、その直前に、一体僕は誰の姿を探すだろうか。
全く想像のつかない未来に待っている、確実で平等な死。
それはまだ遠くにあると同時に、すぐ隣にいつも影をちらつかせている。
最後のボトルを拭き終わり、目の前のボトルたちを棚に並べなおす。定位置に戻った景色は僕を落ち着かせてくれる。
「お次、いかがしましょうか。」
彼女がコースターにグラスを戻した。クラッシュド・アイスが乾いた音を出す。
「そうね。少し、ゆっくりめに飲めるものがいいかしら。」
僕は「かしこまりました。」と言って、体をずらし半身になると、並んだボトルたちを見上げた。自分を頂点にカウンターと棚で三角形を作る。動作と会話を並行させると、その中心に何かが生まれる気がする。
「このボトルも、ちょうどなくなりそうなんですけど、どうですか。ご一緒しませんか。僕にご馳走させてください。」
棚の奥からボトルを出して、カウンターにおく。他のものよりもひとまわり小さい。
「あら、どうしたのよ。」
彼女は、怪訝そうな顔をしながら茶化した。
「いや、いい話?を聞けたので、お礼に。」
「そう、ならご馳走になるわ。」
キャップを開けて、グラスに注ぐ。残り少ないウィスキーが空気に触れた。
そしてグラスに滑り込む液体は、その一部が何処かへと消えていく気体となり、その揮発した分だけ、手元に軽く残った。
僕らは静かにグラスを傾けた。
・・・
今日も等しく夜が来ました。
Sonny Stittで『Old Folks』。
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