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『ゴジラ -1.0』の登場人物設定に関する違和感

昨年末に「ゴジラ -1.0」を観ました。
(以下、ストーリーに触れる部分もあるかと思うので、これから観る方や知りたくない方はお戻りください)



話題作かつ高評価多数とのことで、かなり期待度が高かったのですが…。
僕としての感想は「惜しい」の一言に尽きます。

その惜しさの最大の理由は、主人公のキャラクター設定。ここにどうにも違和感があり、感情移入の妨げになってしまいました。


神木隆之介演じる敷島浩一(主人公)は、特攻隊の生き残りパイロット。映画冒頭は、特攻のための爆弾を抱いた零戦が、とある島の飛行場に着陸(不時着)するところからスタートします。

なぜこの零戦は、特攻することなく不時着したのか。

それは、敷島が「機体に不調がある」と訴えたから。つまり、特攻するために出撃はしたものの、飛び続けることが難しくなって不時着したというわけです。

しかし、島の整備兵は機体をチェックして、怪しみながら言い放ちます。「あなたの言う不調はどこにも見当たらないのですが」と。
この言葉を聞いて、敷島は嘘を見破られたかのような、焦ったような表情を浮かべます。

つまり敷島は、「機体に不調があると嘘をついて特攻から逃げたパイロット」という設定なのです。さらに言うと「操縦技術は抜群で、今回の特攻が初出撃だった」という設定にもなっています。

この設定にどうにも違和感があって、結局最後まで「うーん…」という思いを持ち続けてしまいました。



現代の感覚としては、違和感はないかもしれません。

しかし「戦争末期に初出撃」をした操縦士が生まれ育った時代背景や、その当時の戦闘機操縦士がどのようにして操縦士になったかを考えると、やはりどうにも違和感がある設定に思えてならなかったのです。

(以下、時代考証の話です。「そんな細かいことは考えずに映画として観ればいいじゃないか」という話もあるでしょうし、それについてはごもっともだと思います)


まず「戦争末期に初出撃」をした操縦士が、操縦技術が抜群という部分について。

もちろん「そんな操縦士は絶対にいない」なんて断言することはできないと思いますが、戦争末期の特攻で散華した操縦士は、十分な訓練を積むことができなかったと言われています。

本来あるべき訓練期間も戦争末期にはかなり短縮されていましたし、しかも訓練といえば「特攻のための訓練」であったといいます。

映画で敷島は「震電しんでん」という戦闘機(試作機だけが完成していた幻の戦闘機)を意のままに操縦するのですが、「戦争末期に初出撃をしたという設定だよな…?」という思いが常に頭の中にあるため、どうにもモヤモヤとして感情移入ができませんでした。


また「機体に不調がある」と嘘をついて不時着したという設定についても、「はたしてそんなことができるだろうか…?」と思ってしまうのです。

基本的には、特攻隊は複数機で出撃するはずです。先導機が同伴する場合もあります。つまり何機かの編隊で飛んでいる中で「異常があるから不時着する」という嘘が通用するだろうか…?と。

明らかに不調がなければ嘘は通用しないでしょうから、わざと機体に不調があるように見せかけて飛んだのでしょうか。

すぐ横を飛んでいる戦友たちの前で…!?


主人公の敷島は、どこで生まれ、どうやって戦闘機操縦士となったかは劇中にまったく出てきません。どんな戦友がいたのか、彼らと特攻までの期間をどのように過ごし、誰に手紙を書き、どうやって出撃の朝を迎えたかも描かれていません。

この空白について、時代背景から想像して埋めていこうとすると、やはりこの人物設定には無理があるような気がしてしまうのです。


僕はかつて特攻に関する取材をしたこともあり、知覧の特攻平和会館や、霞ヶ浦の予科練よかれん平和記念館などにも訪れたことがあります。

戦闘機の操縦士は、今も昔も、誰でもなれるものではありません。徴兵で引っ張っられて嫌々乗せられるようなものでもありません。

小さな頃から操縦士になることを夢見ていた少年たちが、志願するところから操縦士への道は始まるわけです。志願さえすれば誰でもなれるわけでもなく、海軍の場合は「予科練」の厳しい試験に合格しなければなりません(敷島は零戦に乗っていたので、海軍パイロットです)

しかもこの予科練、合格するためには文武両道(しかも天才・秀才レベル)でなければなりません。さらに予科練に入ってからも、激しい訓練によってエリート中のエリートのみが選抜されていきます。

つまり敷島は、小さな頃から戦闘機パイロットに憧れ、憧れを叶えるために厳しい勉強にも訓練にも耐え抜いた男ということになります。そうでなければ戦闘機パイロットになれないのですから。
同じ屋根の下で同じ釜の飯を食った仲間たちとは義兄弟ともいえる関係になったでしょうし、戦争末期には、訓練自体も特攻訓練を積むわけです。時代背景を考えれば、戦友たちとは「靖国で会おう」と誓い合っていてもおかしくはないでしょう。

映画の中で説明がない部分を想像で補おうとすればするほど、映画の中の登場人物が嘘っぽく見えてしまって、ストーリーの妨げになってしまったというわけです。


もちろん、ここまでダラダラと書いたのはすべて「僕の感想」であり、決して「批判」ではありません。そう感じなかった人もたくさんいると思いますし、全体的に見れば高評価を得ているのも納得です。

ただ僕としては、その点のみが惜しい…と感じられて仕方がないのです。

時代考証的に無理がある人物像を設定しなくても、『本当にエンジントラブルを起こして不時着した特攻パイロット』が、自分だけ生き残ったことに苦悩するという物語でも良かったのではないだろうか…?

そんなことをずっと考えながら映画館を後にしました。

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