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宮内庁は史実のつまみ食いをしている!?──第2回式典準備委員会資料「歴史上の実例」を読む 4(平成30年4月9日)


 式典準備委員会による検討を踏まえて、陛下の譲位等に関する基本方針が決まりましたが、政府・宮内庁は退位(譲位)と即位(践祚)の分離という、皇室の歴史と伝統に反する重大な過ちを犯していないかと心から心配しています。

 政府は「憲法の趣旨に沿い、かつ、皇室の伝統等を尊重」を基本的な考え方としていますが、陛下の「御退位に伴う式典」と皇太子殿下の「御即位に伴う式典」を別立てとすることは「皇室の伝統」とはいえないでしょう。

 宮内庁はじつのところ、そのことを知っています。宮内庁が2月の式典準備委員会に提出した「歴史上の実例」と題する6ページのリポートには、「(貞観儀式の)『譲国儀』では、譲位と践祚を一連の儀式とする次第が定められている」と明記されているからです。

 古来の慣例をふり返り、とくに200年前の光格天皇の事例に学び、その上で今回の退位(譲位)のあり方を考えるのは当然であり、重要です。そして宮内庁は当然、平安期の儀式書も、200年前の光格天皇の事例でも「譲位即践祚」の原則が貫かれていることを認識しているのですが、それでも結局、「皇室の伝統」は尊重されていません。

 陛下のご意向とされる退位の実現に重点が置かれてきた結果、退位と即位の分離は既定路線とならざるを得なかったのでしょうか。辻褄合わせの史実のつまみ食いさえ行われています。「皇室の伝統尊重」は画餅に過ぎません。

▽1 宮内庁による皇室用語の乱れ


 宮内庁がまとめた「歴史上の実例」、とりわけ「光格天皇の例」は、宮内庁作成とは思えない不思議な内容でした。

 第1に、皇室用語の乱れです。「旧天皇」「新天皇」「前天皇」と、およそ「歴史」的ではない新語が並んでいます。歴史用語と新語の混在はまるでキメラのようで、異様です。

 一般的には、宮内庁こそは皇室の歴史と伝統を守る砦と考えられているでしょうが、現実はそうではありません。

 用語の乱れが注目されるのは、皇室制度の基本に関わるからです。

 たとえば、宮内庁のサイトには「ご日程」が公表されていますが、「天皇陛下のご日程」ではなく「両陛下のご日程」とされています。本来、「陛下」は天皇のみの敬称であり、民間から入られた皇后は「見なし皇族」というお立場ですが、もはや「上御一人」から「一夫一婦」天皇制に変質したかのようです。

 そして譲位と践祚の分離です。

▽2 譲位儀が仙洞御所で行われた?


 2月の会合には宮内庁作成のリポートが2本提出されています。「歴史上の実例」と「両陛下の平成御大礼時の御日程について」です。

 まず前者ですが、御退位と御即位に伴う式典準備委員会に提出されたリポートですから、古来の譲位に伴う御代替わりについてまとめられたのかといえばそうではありません。200年前についていえば、もっぱら光格天皇の譲位のみが取り上げられています。

 即位に関する史的考察は後者で、「即位礼・大嘗祭関係」「地方行幸啓等」の日程がまとめられています。即位のあり方は平成の前例踏襲で足りるのであり、譲位に伴う歴史上の即位のあり方を検証する必要はないという姿勢でしょうか。

 しかしほんとうにそれで済むのでしょうか。ここでは、宮内庁が『光格天皇実録』『仁孝天皇実録』(書陵部蔵)をもとに表にまとめた、200年前の御代替わりについて考えてみます。「 」内が引用です。少しだけ、表現を読みやすく編集してあります。


1、譲位までの経緯

「文化13(1816)年5月16日、光格天皇が翌年3月に譲位なさることを仰せ出される」

 10か月前の表明ということになります。今上陛下の場合、「退位のご意向を強くにじませた」とメディアが伝えたビデオ・メッセージは、平成28年8月8日でした。

「文化14年2月14日、譲位の日時を広く通達される」

 約40日前の通達でした。今回、政府が退位特例法の施行日を「平成31年4月30日」と閣議決定したのは、29年12月8日です。

2、賢所の儀

「文化14年2月20日、光格天皇が内侍所臨時御神楽の儀に出御される」

 譲位の1か月前に賢所の儀が臨時で行われ、天皇がお出ましになりました。宮内庁はこの史実を認識していますが、今回、少なくとも政府、宮内庁が賢所の儀を行うことについて検討している気配がありません。

 なお、光格天皇のときは御神楽の儀ですが、先帝崩御を前提とする明治42年の登極令では、諒闇践祚ゆえ、掌典長によって天皇の御代拝が奉仕され、賢所の儀が3日間、行われることと定められていました。平成の御代替わりでも、賢所の儀は行われました。

 さらに蛇足ながら、「実録」によれば、3月13日、光格天皇は稲荷、梅宮両社において、御譲位・御受禅行幸の御祈祷を修せしめたのでした。「神事を先にす」が皇室の伝統ですが、リポートには言及がありません。

3、警固固関(けいごこげん)

「文化14年3月21日、警護担当等に命じて宮城の警護を行わせ、また三関(伊勢国鈴鹿関、美濃国不破関、近江国逢坂関)の閉鎖を命じる儀式を行う」

 警固固関という歴史用語がありますが、リポートでは使われていません。なお警固固関は登極令にはありません。今回、検討された気配はまったくありませんが、このようにリポートには登場しています。

4、行幸

「文化14年3月22日、光格天皇は卯刻(午前5〜7時)過ぎに装束を召され、内裏の紫宸殿より御退出になり、上皇の御在所(仙洞御所)となる桜町殿に行幸になる。辰半刻(午前8時)過ぎ、桜町殿御着」

「同日(時刻は不明)、皇太子(恵仁(あやひと)親王)は東宮御在所(内裏御涼所(おすずみどころ)北)から新天皇の御所(清涼殿)に行啓になる。皇太子は、譲位儀には参列されていない」

 ご承知の通り、光格天皇が剣璽とともに仙洞御所に移られるときの模様を描いたとされる「桜町殿行幸図」が残されており、ネットで公開されています。

 この行幸について、リポートは、「光格天皇は、譲位儀当日、内裏から鳳輦により、上級官人約80人の供奉で仙洞御所に移られ、このとき、各上級官人の従者や警護の武士など大勢のものもいっしょに動いた。この際、築地の内の公家や所司代の関係者からお見送りを受けたもので、公衆に披露する御列(パレード)ではない」と註釈しています。

 行幸図が残されているほど大がかりなものなのに、国民主権主義的な性格はないというような理由で否定的なのには違和感があります。国民主権主義とは次元が異なりますが、皇室行事はけっして閉鎖的ではないからです。最近の研究では、近世、即位礼の拝観が庶民に許され、チケットが配られていたことが明らかになっているほどです。

 リポートは行幸時の装束について言及していますが、今回の退位の儀で陛下は装束を召されるのでしょうか。検討はされたのでしょうか。

 また、「新主」「新帝」という用語がありますが、宮内庁の資料では「新天皇」です。

5、譲位儀

「同日、光格天皇は桜町殿弘御所(ひろごしょ)御帳内にお出ましになり、皇太子への譲位儀を行われる」

 リポートでは仙洞御所で譲位儀が行われたことになっています。また、皇太子が参列されなかったことについて、異例とされています。

 リポートは、「『貞観儀式』では、天皇と皇太子がそろって儀場の上皇御所にお出ましになり、譲位が執り行われることとされていた。光格天皇の以前に行われた譲位儀(後桜町天皇から後桃園天皇へ。47年前)においても、譲位は天皇と皇太子がおそろいで行われた(場所は紫宸殿)」と注記しています。

 しかし資料の誤読ではありませんか。譲位儀の儀場は仙洞御所(リポートでは上皇御所)ではないはずです。

「貞観儀式」は、天皇が紫宸殿に出御され、皇太子が紫宸殿の座に就き、宣命使が譲位の宣命を読み上げ、皇太子が新帝となられると記していますし、何よりも宮内省がまとめた「仁孝天皇実録」が明確に、「清涼殿に於いて受禅あらせらる」と記録しています。

 宮内庁はあろうことか、宮内省作成の記録を内容的に否定しています。退位と践祚を分離したい一心で、仙洞御所での譲位儀があったかのように、歴史の捏造におよんだのでしょうか。そんなことがあり得るのでしょうか。

6、宣命と節会

「巳半刻(午前10時)、宣命使に譲位の宣命を宣読させる。庭上の参列者は、宣命文の段落の切れ目ごとに「おお」と声を出して応答(称唯。いしょう)し、拝礼する。宣命が読み終えられたら、称唯し拝舞する」

 仙洞御所では節会も行われましたが、宮内庁の資料ではどういうわけか、抜けています。史実を客観的に、正確に検証する姿勢ではないとの疑いが晴れません。

 室町期の一条兼良『代始和抄』には「御譲位のときは、警固、固関、節会、宣制、剣璽渡御、新主の御所の儀式などあり。これは毎度のことなり」とありますから、節会は重要なはずです。「実録」に引用されいる「寛宮御用雑記」などにも、「所司代於桜町殿節会拝見」とありますが、宮内庁は無視しています。

「代始和抄」@国会図書館

 そもそも宮内庁は、「簡にして要を得たる」(赤堀又次郎)と評される「代始和抄」を、史的検討のうえで参考にしていません。

7、剣璽渡御

「同日、未刻(午後1時)ごろ、前天皇が桜町殿弘御所昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 関白が御前に候し、公卿は南の庭に列立する。
 内侍2人が剣璽を執り、南庇に出る。中将2人がそれぞれ剣・璽を受け取り、捧持して桜町殿弘御所南庇より筵道を進み、新天皇の御所(清涼殿)に向かう。
 公卿らが供奉する[桜町殿→陽明門代→建春門→日華門→(紫宸殿の西側)→清涼殿]」


「未半刻(午後2時)前、剣璽が清涼殿の東階前にお着きになる。
 供奉の公卿は紫宸殿西側の弓場(ゆば)付近に西面して列立する。
 新天皇が清涼殿昼御座(ひのおまし)にお出ましになる。
 中将2人が剣璽を捧持して東階を昇り、内侍に授ける。
 関白も東階を昇り、広庇(ひろびさし)で控える。供奉の公卿らは退出する。
 未後刻(午後3時)頃、内侍は剣璽を清涼殿の夜御殿(よんのおとど)に奉安する」


 ほかの項目と比較すると異常なほど、宮内庁は剣璽渡御について詳細にリポートしています。他方、剣璽渡御の開始時に、すでにして「前天皇」と表現されているのは不自然さを禁じ得ません。むろん剣璽が継承されるのは清涼殿でのことでした。

 結局、御代替わりに先帝から新帝に皇位の印である剣璽が継承されるのではなくて、譲位と即位とを分離し、先帝が剣璽を「手放す」のが退位だという発想が原因なのでしょう。しかし桜町殿では剣璽を「手放す」ことは行われていません。

 宮内庁による光格天皇譲位の事例研究はここで終わっています。肝心要の譲位即践祚について、宮内庁のリポートはまったく解説していません。歴史を検証する政府・宮内庁の目的は、退位であって、即位ではないのでしょう。したがって、リポートは「代始和抄」に「毎度のことなり」とされている「新主の御所の儀式」に言及していません。

▽3 桜町殿で行われたのは宣命の作成


 それなら、あらためて桜町殿で、そして新主の御所で何がどのように行われたのでしょうか。宮内庁のリポートは具体的に、何にフタをしたのでしょうか。

 参考にすべきはむろん「実録」で、この日の出来事を詳細に記録した「日次案」(日誌)が10ページほど引用されていますが、漢字だらけでとても歯が立ちません。幸い、所功先生が訓読されたものがありますので、以下、感謝の意を込めつつ、引用させていただきます(「光格天皇の譲位式と『桜町殿行幸図』=「藝林」昨年4月号)。

 まず、仙洞御所での儀式です。

 宮内庁のリポートにあるように、この日、光格天皇は桜町殿に行幸になりました。日次案は、80名におよぶ参加者の役職と名前を克明に記録したあと、桜町殿での様子を次のように伝えています。

「左大臣・権大納言・右衛門督、萬里小路中納言・左衛門督等、仗座に着く。大臣、官人をして膝突を敷かしむ。
次に職事来りて勅使のことを仰す。大臣、官人をして弁を召し仰せしむ。
次に内記、宣命草を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、清書すべき由を内記に仰す。
次に内記、清書を進り、大臣披見し、弓場代に就きて奏聞す。畢りて返し賜ひ、次に大臣、還り仗座に着き、宣命を賜ふ。
天皇、御帳の中の椅子に着きたまふ。近仗、階下に陣し、内侍、檻に臨む。
次に大臣、宣命に御笏を取り副へ、昇殿して兀子に着く。
次に門を開き、#(門がまえに韋)司、座に着く。
次に内弁、舎人を召して版に就く。
次に内弁、刀祢を召し、少納言、称唯して出し召す。
次に外弁、標の下に参列す。
次に内弁、宣命使を召す。授る(ママ)宣命使、これを賜り、殿を降りて軒廊に立つ。
次に内弁、殿を降りて列に加はる。
次に宣命使、版に就き、宣制一段、群臣再拝す。
次に宣命使、本列に復す。諸卿、退出す。
入御したまふ。近仗退出す」

 桜町殿での儀式の中心は宣命ではなくて、宣命の作成であり、このあと節会が行われたようですが、これらは宮内庁のリポートにいうような退位の儀式と理解すべきなのでしょうか。

▽4 政府の説明は当を得ていない


 節会が終わったあと、天皇は新主の御所に移られ、剣璽渡御が行われました。

「節会訖りて、剣璽を新主の御所に渡さる。昼御所を出御したまふ。
関白、御簾を#(ウ冠に寒の下が衣。ふさ)ぎ、御前の円座に着く。
次に公卿以下、簾中に立つ。内侍二人、剣璽を執りて南庇に出づ。あらかじめ筵道を敷く。左右の大将、簀子に候す。
次に近衛二人、参進し、南階より昇りて当間に入り、剣璽を取りて階を降り、筵道を歩き、新主の御所に到る。公卿以下、前後に供奉す。
次に殿上の侍臣、昇りて御衣の案を御前に立つ。五位蔵人、仰せを奉りて、新主の御所に持参す。
この間、御帳以下の調度を渡し、入御したまふ」


 以下は略しますが、所先生の解説によれば、こうです。

「未刻ころ、剣璽が下御所(桜町殿)を出てから、建春門を入って清涼殿ヘ渡御される。左大臣以下は紫宸殿脇の仗座に就き、宣命が出来上がると奏聞する。そこで天皇は御帳の椅子に着かれ、内弁から宣命を受け取った宣命使が、版位に就いて『宣制』すると、いったん入御された。
 さらに節会のあと、剣璽を『新主』(仁孝天皇)へ渡すため、天皇が清涼殿の昼御所を出られると、内侍が剣璽を執って新主の御所(御常御殿か)に到った。
 その後、子半刻ころ、関白が殿上の座に就き、御前で仁孝天皇の『仰せ』を奉り、『折紙』を院司に給ると、院司は中門の外で『賀』を奏してから退出した。ついで、あらためて関白以下が参入して『賀』を申し、『御祝儀』を進めている」

 所先生の説明では、宣命が読み上げられたのは、宮内庁のリポートが譲位儀が行われたとする仙洞御所ではなくて、清涼殿なのでした。剣璽渡御も同様で、むろん新帝もお出ましになっています。

 とすれば、光格天皇の譲位儀は仙洞御所で宣命使に宣命を宣読させたが、今回の退位の礼では宮殿松の間で総理大臣の奉謝、陛下のお言葉によって退位が内外に明らかにされるという政府の説明はまったく当を得ていないことになりませんか。

 ほかならぬ保守長期政権下で、皇室の歴史と伝統がねじ曲げられ、御代替わりの儀礼が歪められるのは、なにか悪い夢でも見ているような気分です。できれば思い過ごしであることを願うばかりですが、たとえば今回、有識者のヒアリングに応じた1人でもある所先生は、この現実をいかがお考えでしょうか。それでも、譲位(退位)と践祚(即位)は分離されるべきでしょうか。


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